日々の感動 日々の新しい出会い 真実との出会い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント13章、みんな大好きで、何度も読み返す箇所だと
思います。
 
”愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の
利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。”
と書いてあります。
 
愛=神の契約の愛の姿=トラーの性質=人間の本来の
性質=愛=アハバの姿が書かれている。
 
以前私は信じた初めの頃これらは、イエスさまと入れて
見ればピッタリ、でも”わたし”と入れるとどれだけ
ズレているか、自分の姿とほど遠いと
分かりますと教えられた事があります。
 
その教え、半分本当で、半分不正解です。
イエスさまの姿、トラーの愛=アハバの姿そのもの。
でも同時にそれは、私達の姿が書かれているのです。
 
ズレているのは、”本物の自分の姿”からズレて生きて居る
部分があると言う事だからです。自分の本来の性質に
そぐわない生き方をしていた、または繰り返し生きて居ると
言うのが事実。
そのズレに気がつくために、照らし合わせてみる、
神の顔=鏡=本当の自分を映し出す鏡=トラー=
神のインストラクションなのです。
 
神のデザインされた本来の人間の姿が丸ごと
書かれているのが、トラーです。
あなたは誰か?どんな性質の人かを教えてくれる。
 
そして、以前の自分=主と共に死んだ自分の姿は
それと比べると”ズレている”と言うのが正解です。
 
親切=自分の本当の性質は親切=神の似姿に造られて
いるからです。
これを、信じて、宣言して生きれば分かります。
 
信じようとしている横から、疑いの言葉=あなたは原罪が
あるので罪人だよ!蛇の言葉を信じて食べて復唱しては
ならない。
本気で、神の与えて下さったナファーシュ=安息に入る
世界を知りたかったら、嘘を宣言し続けていては
入れない。
神の完了の業を否定する、自分を人を新しい人で
生きれる真実を知る事を妨害する言葉を一切
決して発してはならない。宣言してはならない。
 
言葉はエネルギーです。言葉を発すると
目に見えないけれど、バイブレーション、エネルギーと
して環境に排出され、それが実態になるのです。
目に見えないけど、環境に浮遊して行く。
だから、言葉で人を生かしも、殺しも出来るでしょう。
 
私達は環境そのものなのです。
私達がEnvironment、世界の環境そのもの。
環境が毒な煙を吐き出して大気汚染をして、
PM2,5状態を造り出してはならないのです。
神の言葉と相反する事を宣言し続ける事は、
神の言葉、完了の業を真っ向から否定していると言う事
に気がつかないとならないのです。
 
神の言葉ではない事は言うのは、脇へ置く、捨てる、やめる。
 
プラス、頑張って”神の似姿の人”をやるのではないのです。
自分の性質だから、性質通りに沿って生きる。
それだけです。
 
もし、私って駄目だ〜と言うなら、それは
”神の言う事を信じません、感じられないから、確信持てない
から、分からないから。”と言う事と全く同じ事を
宣言しているのに気がつきますか?
 
信じます信じますと言いながら、次の瞬間に神の言葉を疑い
そう言われたけど、やっぱり現実は違うからねと
所詮罪人だしさと、肉の目から見た通りを言い続け、
神の目から見た自分の姿を、神の言う言葉を信じて、
知ろうともしない。
アダムとエバの様に、神の言葉に対しての信憑性に疑いを持ち、
結局本気で神の言われる事を受け取らない、信じない、
生きない。
 
この繰り返しを毎日しているだけです。
何も変化ないのは、神の言葉を無視して疑い、
神の言う通りを信じて、やってみない、生きて見ないからです。
単純なこと。
 
神の定めた暦の中で、その暦の特別な日の意味を知って
その中身を生きて行くと、分かる分かる。
福音の全て、丸ごとを再現して生きるから
分かって来る。そして死んだ人の脳回路が離脱される。
刈り込みされて、要らないものが削ぎ落とされて行く
その神の言葉の事実を体験出来る。
 
やらないから分からないだけ。
神の言葉を終ったと勝手に決め込むから、
一番大事なレッスンを受けられないまま
素人の手探り状態が続く。
 
続く