教会って何? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

"トラー"が仮の教えで、呪いで、律法主義的な教えで、

イエシュアが昇天後には、終った教えになり、別の教えが

出現したとするならば、なぜイエシュアは終ったのだとする

教えを丸ごと地上で生きて、教えて、皆にお手本を示した

のだろう?

しかも、トラー、預言書、諸書はイエシュアそのものと

御自身が言われているのに。

トラー=イエシュア、御自分を否定しに来た?

こう考えて行くと、全然人間の教えが、聖書の事実と

相反して辻褄合わないと見えて来る。

聖書の事実だけに基づけば、真実が浮き上がる。

 

使徒達、パウロ達も、イエシュアが生きたそっくりそのまま

その足跡を辿って、トラーの中身そっくりそのまま、

生きて、世界の人々に教えていたのです。

まして、トラー以外の新しい宗教の教えなど決してしていない。

パウロは、西洋宗教、トラーの教えを破棄して、新しい教えを

唱えた創始者ではないのです。全くの誤解です。

 

使徒21章、神殿でナジル人の誓願をパウロが立てた意味が

はっきり分かれば、そんな人間の教えは削除されるはずなの

です。

”100%トラーに反した生き方、教えをしてません。

トラー=肉体を取ってこられたイェシュアの中身=神に

造られた人間の姿”に100%忠実に生きている人である!と

パウロは、宣言をしたのです。

 

只宣言したのではなく、そのナジル人の誓願の中身が何かが

分かれば、どれだけシリアスで深刻な誓い、宣言だか分かると

思います。

その場しのぎの、適当な”カメレオン”的コロコロ変わる

七変化の宣言ではない。生涯それが貫かれたのです。

ナジル人の宣言がどんなものか、別の時に書いてみたいと

思います。

 

シャブオート=ペンテコステは、まさに”トラーの教え”が

世界にエルサレムから出て行った幕開けなのです。

 

そして、都のぼりの祭り=シャブオートまでエルサレムに

留まって約束を待ちなさいと、この”特別の祭り”の時の指示を

使徒達がイスラエルの神に言われた事に注目してみるのです。

 

イスラエルの神はシャブオートだけを祝いなさいと、聖書の

中では教えていないのです。聖書をそのまま読めばはっきり

書かれているから分かります。

朝ご飯食べれば、昼も、夜も食べなくて良いみたいな

そんな欠けた教えは書かれていない。

そんな、欠けた教えを神はしていない。

神の仰せは全て丸ごとでワンセット=福音の中身を網羅する

からです。

ヘブライ人のトラーの世界を理解出来なくても

書いてある通りに読めば分かります。

 

神の定めの時を、一つだけ取り出して祝うと言うのは、

まさに、不完全燃焼、完全に欠けている、イスラエルの神の

性質=シャロームの状態とは異なるもので、意味を成さない

のです。

 

まさにその教えは、前菜だけ食べて、メインもデザートも

ドリンクも無い、晩餐会の食事の中身になってしまう

事が見えれば理解出来るでしょう。

 

神の定めの時、どれかひとつを取り出す、又は取り除いて

良いのだとするのは完全に、只の人間の教えなのです。

神の教えではない事は確かです。

 

イスラエルの神の性質=シャローム=丸ごと欠けのない

エハッド=全く一つの神の性質からズレた考えを

人間が編み出してしまったと言う事です。

 

またイエシュア昇天後に、”教会”=これも不適切な翻訳用語で、

内容、実態を誤解してしまう言葉でありますが、教会と

訳されている本当の意味は、私達の想像する今の様な

西洋宗教の教会が突然シャブオート=ペンテコステ以降から

出て来たのだと言う教えは、聖書には書かれていない。

 

しかも、聖書の最後の三分の1が書かれている当時は、

イエシュアを信じる人殆どがヘブライ人なのですから、

ヘブライ人が、トラーを捨てて、異教の神々の教えを混ぜた

西洋ローマの宗教を、やるはずがない。

いや、使徒達が生きていた時代は、西洋宗教なるものすら

全く存在していなかったのです。

 

人の解説の中にはあたかも聖書の中に西洋宗教が書かれている

かの様な記事を見ますが、聖書には書かれていない。

 

聖書をそのまま読んで見れば、事実は永遠に変わらず、

神の真実、事実だけが、はっきりと書かれています。

 

イエシュアが昇天した後は、教会時代が出現したとか、

聖霊時代とか、これからは異邦人の時代だと、異邦人に

契約が渡されてイスラエルが退けられたのだと思わされて

いるかもしれませんが、元を正すと、”教会”と言う言葉の

本当の意味は、太古から存在しているカハール、エクレシアと

言う言葉。残りの民達です。

神に呼びだされた人達。

使徒2章が始まりではなくて、創世記の始めから。

 

イスラエル=同じ神の婚姻契約の中に加えられ続けて

行く人達、それだけです。継続しているのです。始めから

ずっと同じ。人種に係わらず。

そして、神はエハッド=一体の神なのです。

 

突然使徒の2章のシャブオート以降、別要素=聖霊なる

ものが初めて出現して、人の中に初めて神が住まわれた

なんて書かれてない事、トラーを読めば分かります。

 

始めの始めから神が人の間に中に住まわれていた数々が

書かれています。しかも、肉眼でもその事実が分かる様に、

神の移動式幕屋=後に神殿=ハ バイト=神の家を通して

教えていた事実が書かれています。

 

続く