聖書にある記述か、文化、人造宗教の中で編み出された教えなのか区別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の記事の続きですが、2世紀後半になって、

キリスト教的「過越祭」の期日が論じられるように

なったと、2番目の項目として書かれていました。

 

キリスト教的「過越祭り」とは一体何なのか?

それは、聖書の中にあるのか?と言う点を

見れば分かります。

 

西洋宗教的であって、ヘブライの聖書の中に書かれて

いるものとは、全く異なる、違う種類の“過ぎ越”

であると書かれています。

 

まず、西洋宗教なるものが、2世紀に初めて出現した

歴史を知る必要があります。

”聖書の中には出て来ない”カテゴリーの宗教である

事実を捉えると見えて来ます。

 

そして、それらは、意図的に”ヘブライ色”を削ぎ落として、

つまり、神の言葉、仰せの内容をもう無用なものと

見なして、造られた宗教だったと言う事実に目を

留めると、なぜこんな事になったのか見えて来るのです。

 

感情に捕われないで、聖書に基づく事実なのか、

否かだけを見て行かないとならない事なのです。

 

もともとは、異邦人達がナザレのイエシュア=ヘブライ人

イエシュア=生けるトラーであるイェシュアを信じて

いる事に関して、命を脅かされる迫害にあった歴史

背景を知る必要があるのです。

 

ヘブライ人は、断固としてローマの圧力に屈する事なく

地の塩、世の光として”婚姻契約” イスラエルの神の

言葉、契約を死守したのです。

 

そして、一方イエシュアを信じる異邦人達は、

ローマ政府の様々な迫害から自分の命を守るため、

迫害を逃れるために、自分達は“ヘブライ人イエシュア”を

信じていても、ヘブライ人=イエシュア、使徒、パウロの様な

生き方=トラーに書かれている様な姿を生きる人達ではない。

ヘブライ人と同等であるとは見なさないでほしいと主張し、

ヘブライ人とは大分違うライフスタイル、聖書の仰せを

大分削ぎ落として、ヘブライ色を避ける教え、”婚姻契約”=

トラーの生き様とは大分違う、別の形の新しい教え、

宗教を信じている人達なのですと、主張して造り出された

教えが出現して行った経緯があることを知れば、

見えて来る事実の数々があるのです。

 

<二世紀後半になって、キリスト教的「過越祭」の期日が

論じられるようになった。>

 

ですから、ここに“過ぎ越”に関して、異議を申し立てて、

論じているのは、異邦人達=西洋宗教を造り出した

教父達によるものであり、”過ぎ越”に関する

どんな内容に関してを論じているかと言う事が

問題点になるのです。

 

イスラエル、ヘブライ人が“過ぎ越”に関して、

論じる、変更するなど、絶対にそんな事

有り得ないからです。

 

”イスラエル”にまず最初に与えられた”婚姻契約”である

印を生きる事を、彼らヘブライ人が捨てる事は

無いからです。

 

今でも、イスラエルでは、イエシュアを信じる人達も

信じてない人達も、変わらずに”過ぎ越”に始まる、

すべての”主の定めの時”を、国全体で祝っています。

 

神のデザインされた暦、定めの時に対して、どんな理由で

人間が神に異議を申し立てて、それらの内容を変更する

議論などするのでしょう?

と考えたら分かる事なのです。

 

生きとし生けるもの全ての創造主である神に対して、

なぜ人間が異議を申したてる余地があるのでしょう?

 

神の言葉に、付けたし、削除は”無い”、してはならないと、

神が言われた通りなのです。神が言われたら、その通りを

聞くのが妥当なのではないでしょうか?

 

神の定めた教えに対して、異なる教えを造り出したい、

異議を申し立てたいとする人達は、神の言葉、仰せに対して

何か不服、不満があると言う事なのだろうか?と言う事です。

不服より、神の考え、デザインにまさる”考えがある”と

言う事なのだと思います。

不服さえ言う余地は、人間には無いと言う事なのです。

 

神に造られた人間にそんな事言える余地が、

一体あるのだろうか?と考えたら分かります。

神が決めたら永遠不変なのです。私達は、神の造られた

世界に神により産まれて来ただけなのです。

 

”小アジアの教会”は、ユダヤ教の過越祭の日

ユダヤ暦第一の月=ニサンの月の14日から、

イースターを祝った”と書かれていましたが、

ここ半分は正しく、半分間違いです。

半分真実、半分不真実が混じっています。

混ぜられた教え、説です。

 

”ユダヤ暦=第一の月=ニサンの月の14日は

日程は正しいですが、”

これは、”過ぎ越”の日に、イースターを祝ったのではなく、

ヘブライの聖書の中には、イースターなるものはなくて、

”過ぎ越”は永遠に”過ぎ越”なのです。過ぎ越の時に、

イエスさまもされていた同じ過ぎ越を祝っていたと

正しく訂正し直さないとならないのです。

 

この類いの記事を読むと、適当に聖書の教えを

変形している事実を見つける事が出来ます。

 

続く