止まるために止まる日 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバット シャバトーン

 

休む 止まる 完全に止まる。

自分の命を支えている手の業から、完全に止まる日。

 

止まるために、止まる日。

止まるため=自分の手の業を止めるために、止まる日。

 

6日目までに全ての業を主が完了されたから。

何も残す、欠けの無い状態を造る事を完了したから。

そして、主が私達に”7日”目に止まりなさいと

永遠の仰せを下さったから、その通りに止まる。

 

手の業=自分の努力、ズレた意識、ズレた生き方、

ズレた言動、全て、主の意図とズレた何かがあると

するなら、それを今一度確認して、”元の姿”=主の似姿で

ある事の中に、生きる事に今すぐ戻る、完全軌道修正。

 

日々の中で忙しくて忘れている数々を取戻す日。

意識的に取戻す。それを家族が、皆が、街全体が、

国全体がするなら、それは”天の国”の現実が

地に下りて来る事になるのでしょう。

 

ハイ ホリデー 神の定めの時=”仮庵の祭り”が来るのは、

来月10月16日。

ユダヤ暦で言う、第七の月の14日の日没からスタートです。

 

そして、ユダヤ暦の第7の月、テイシュレイの第10日は、

大贖罪日です。

そして、大贖罪日の始まる前の、第七の月の1日は、

ヨム トルアー。ショファーを吹き鳴らす日。

あのシナイ山、婚姻契約の出来事、そして、その元は

”エデンの園”の命の木に戻る事を、思い起こす日なのです。

 

人が一人一人、その日だけではなく常に主のお仰せに

耳を傾けて聞き、生きるならそれは完全に違う世界に

なるのでしょう。

 

そんなに複雑な事ではない。簡単に出来る事。

難しい、苦行の修行の世界と思わされているのは

完全に主の言葉とは違う事だと分かって来ます。

子どもでも出来る事なのです。いや、子どもの方が

素直に主の言う事を聞いてそれを生きる事が出来る

のかもしれません。先入観、疑いを食べ続けないから。

 

国、世界と考えると、果てしなく大きくて想像

つきませんが、まずは自分の生きる生活の中で、主の仰せ、

言葉を聞く事の中に生きる事を始めれば良いのでしょう。

 

全ては、練習。新しくされた人を生きる世界を

知って行く、実際に練習して行く。どの世界でも

そうしているでしょう。プロになるには、みんな

絶えざる訓練と、練習を重ねて行く。

日々の普通の練習。ウルトラ級の業を取得するのでは

無いからです。本当の自分を知って、それに生きる事を

取戻して行く。

 

主の言葉を聞いたら、そこからズレないで、はみ出ないで。

主の似姿に変えられた人の、生きる世界、領域は、

天の現実=主の中である事を常に意識して。

 

主の似姿に変えられた人の生き方は、トラー=聖書の

中に全て書かれている。それに照らし合わせて、ズレている

のか、居ないのか常に常に意識して考えて、行動する。

 

あなたは罪人!と言うズレた言い方を変える!

自分は罪人ではなくて、主の似姿にされた人である事を

まず、知る事。そしてズレた事を考えて、行動しそうに

なる瞬間に”それは、本当の自分ではないよ!主の中に、

主の姿ゾーンに飛び込め〜戻れ!”と、ブレーキかけて、

ストップする!

 

それは”主の似姿の自分の考える事、する事ではな〜い!”

と言い換える。皆が皆一秒一秒、天の現実=神の御顔の前で

神の言葉に照らし合わせて生きる事をするなら、

生きる世界が変わって来るでしょうね。

 

”絶えず祈りなさい” 絶えず テフィラーしなさい=

テフィラーとは、主の言葉の前で、主の意図通りを照らし

合わせて、思いめぐらし、軌道修正して、主の御旨100%に

留まる事を、ヘブライ語では=テフィラー=祈りと

書いてあるのです。

聖書の中の祈りと言う意味は97%テフィラーと言う言葉、

意味で書かれている事、その意味を知って行動に移す。

 

シャバットは、イスラエルだけではなく、

主の命に変えられた人、主の永遠の同じ婚姻契約に入られた

大家族の一員である人、全てが招かれている日。

お父さんが来て、お母さんが来なくて、子どもも1人だけ

来て、他の兄弟はどこかで別の事をしていたら、なんか

さみしい、欠けている=シャローム=欠けの無い姿を

生きる事からは、ほど遠い。

 

全宇宙、全世界の生きて生きるものを造り出した

主の御前に家族一同で出て、祝う。同じ日に同じ目的で

同じ事を考え、同じ意図で、命を祝う。

 

“シャバット”=神の定めの日は、主の似姿にされている人

の印であるからです。生きて現す印。

 

そして、一つ家族はバラバラな別々の日に別々の事を

するのではなくて、主の呼び出された日に、一つ家族で

ある姿を生きる。

一つ家族=イスラエルの神の子らである特別な印を

生きる事で、地の塩、世の光、命、生ける水=救い=

イエシュアの命は、ここにあると言う事を、世界へ知らせる

家族の灯りとして私達は世界の中に灯りを灯して

行くのです。

 

どこに生きていても、どんな事をしていても。

私達の中に住まわれる”救い”=イエシュアの香しい香りを、

世界へ運ぶ人として。

 

シャバットの歌

シャバット シャローム

シャローム アレヘーム

この歌を金曜日の日没に家族と歌いながら、

今ふたたびイスラエルをイスラエルの神を

イスラエルの友人、世界にいる友人を思い

懐かしくなる 会いたくなる。

離れていても、現実は、今”主の中”に一つとして

繋がれて生きて居る。私達は一つ体、一つ家族として、

一つの神、イスラエルの神の中に、永遠の中に

造られたのだから。

 

Shabbat Shalom