1 列王記 12:28
「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。
イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上った
あなたがたの神を見よ」。
この箇所、あのシナイ山のイスラエルと同じ事を繰り返して
いる事が書かれています。
自分の編み出した考え、自分の手の業、方法で、
”イスラエルの神”を拝む。
ヤラベアム王は、”もうエルサレムに上るには、
およばない。”と、神が言った事とは、反対の事をここで、
語っています。
三大祭りは、エルサレム=都上りの祭りなのです。
12:29
そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。
12:30 この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを
礼拝し、ダンへ行って一つを礼拝したからである。
バラバラに分断された、主の意図とは違う事を
しています。
12:31 彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない
一般の民を祭司に任命した。
”ハ バイト”=神の家=神殿は、エルサレム以外にあっては
ならないからです。
地上の祭司の役割をする人達は、”レビ族”の子孫と神が
決めているのです。レビ族以外の部族の人は、地上の
”神の家”=ハ バイト=神殿に仕える祭司となっては
ならないのです。それぞれがそれぞれに主の目的に
沿って造られている=”聖なるもの”とは、主の意図通りに
主の上に取り分けられた者と言う意味だからです。
神の目から完全にズレた事を行なっています。
完全に神の言葉無視です。
シャマー=従えと訳されている、本当は”聞きなさい”と
言う言葉、”シャマー”神の言葉を完全に聞いていない、
いや、無視、排除です。
”天の祭司”とは、メルキゼデクに属する=イエシュアに
属するもの。
私達は、”天の祭司”と呼ばれるなら、天の現実=神の
言われる通り、イエシュアがされた様に、主が言われたら
言う、言われる事でない事なら言わない、言われていない
事をやらない、動いたら動く、止まったら止まる。
天の神の家=地上の神の家の中で、教えられている
通りを、世界へ伝えて行く人達である訳です。
主が動く=私達が動く=本体と影の関係なのです。
つながっている。主の意図通りを生きる。
本体が動いたら、影も動く。
本体が止まったら、影も止まる。
主の仰せの通り、意図通りを生きる人である
はずなのです。
12:32 またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の
十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルで
そのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。
また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。
ここにある第八の月の15日の祭りとは一体何の祭りを、
自分勝手に変形させているのでしょう?
第七の月の15日は一体何の祭りがあるのでしょう?
第七の月、テイシュレイの月の15日、今年は、
10月の16日から始まる、”仮庵” 一番大きな定めの時を
迎えます。
”仮庵”の祭りを、主の定めた通りの第7月15日ではなく、
翌月である第八の月の15日に変更したとある下りを読み、
ニカイア会議で、”過ぎ越”を、”過ぎ越”の後の日曜日に、
”イースター”と言う別名で、別の日にち、別の内容の祝い
に変更したとある事実と、どうしても重なって
見えてしまうのです。
続く