止まって 主の言われる事を聞く シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

止まる。
のんびり、ゆったり生活する事が出来る人達は、
そんなには多くない。
何の予定もなく、時間がたくさんあり、のんびり、
ゆったりしていても、頭の中が様々な
考え、思いでせわしなく、忙しい事もある。

一日を、ずっと”主の思い”とピッタリ、主の言葉だけを
思いめぐらせているのか?それとも、不安、不信、
思い煩い、恐れを思い巡らしているのか?

アバ父の教えは、全て私達の”まことの命”が
守られるためのもの。
宗教をやるためではない。
自分の正しさをアピールして、
どれだけズレている人なのか主の前に述べて、なだめて、
許しをこい続けて、神に認められるために
アプローチする事でもない。

”元々の姿”=神の似姿の人が取戻されている事実を、
そう感じなくても、主がそう言われるから信仰により
受け取り、信じて、それを実際に生きる。

”聞く”=シャマー。
これが何より大事な事だと、主が言われる。
神の言葉を神の意図通りに聞く。シャマー。
従うなんて言葉は聖書に一度も出て来ない。
主は”聞きなさい!”と言われているだけ。

聞いたら、神の言葉に応答、反応する。
理解したら、主の言われた通りを生きれるから。

止まって。
自分の中で空回りしている独り言を止めて、
主の言われる事に耳を澄ませる。
やめる。
死んだ自分で生きて居る部分に気がついて、それを即座に
止める。二度と繰り返さない。
本当の自分じゃない生き方を、選択し続けない。
無意味な努力をしている部分に気がついて、やめる。

主の姿に属さない全てを、それに気がついて、
とめる、やめる。

シャバットは、オリジナルの姿、原点に戻る日。
修正、修復、回復する日。
本当の自分に気がついて。同時に本当の相手の姿を知る。

頭の中が余計な事でせわしなく、行動も思索も
日々の中でズレていたら、
”止まる”。
そして神の元に、神の中に戻る。
神の言われる事をそのまま、その通りに聞く。
お互いの声を、思いをそのまま聞く。

お互いの存在を喜ぶ。祝う。命を祝う。

ラハイン=命へ乾杯!と、ワイングラスを乾杯する。
喜び、命、祝福を与えられている事を皆で思い出す。

命は、誰によって支えられているのか。
私達は誰なのか?
神の御座の元に集まり、祝う日。
主が定められた、永遠の印。
イスラエルの神との関係が永遠に存在し、契約に
基づき破られる事の無い永遠の愛の関係=アハヴァ
の保証に入れられている印として、生きて祝う日。

原点に戻る日。
そして、主の完了の業から1週間をまた生きる事を、
スタートする。

Shabbat Shalom