神の言葉の不変 不動 永遠の重さ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

友人達と話しているだけで、様々な事に気がついて行く。

異邦人は自分の信じている事をサポート、証明するために
神の言葉をいとも簡単に変えたり、曲げたりするけれど、
彼らのコメントはこうだった。

”神の言葉なんだよ。” 神の言葉がなんたるか 永遠不動だと
言う事分かっている?と言う意味で言われていました。
”神が一度でも変更しなくてはならない様な事を、簡単に
口から発して、人々に教えて、後から訂正、変更するなんて
ある訳ないのだよ。”と

あなたは”イスラエルの神”の実態を本当に知っているの?と
言う意味で言われていた。

聖書に、そう書いてあるからそうだと認める。
神がそう言われたからそうだ。違うと言われたら違う。
神が ”ロー” ノー 違う 駄目ですよと言われたら
そのまま受け止める。

私達は全宇宙の王の王 主の主が造られた世界を只只
知る側に立っているだけ。

シャマー イスラエル=聞きなさい イスラエル。

私達に求められているのは、主が言われる事をそのまま
聞く事だけ。

神の造られた世界を、定義付ける側にいるのではない。
デザイナーのデザインされ造られた通りを、知って行く事
だけが、人に求められているのです。

この世界を、自分自身を、自分が造ったんじゃないからね。。。
と言う事なんだと分かります。

もし、イエシュアが来られた後、神の言葉が変化すると
するなら、それこそイエシュアが来た後は、犬が猫にも
変身しますと言う事と同じ位ズレている事が見えて来る。

変えたり曲げたり、変化するなんてつゆにも疑わない態度。
神がそう宣言するから、”永遠不変”なんだと言う事を当然の如く
受け止めて信じている。


そう言うイスラエルの人達に向かって”新しい教え、新しい福音、
新しい契約”が来ましたなんて語ったらそれこそ、こちらの方が
イスラエルの神の性質を知らないのだと証明している
事になってしまうと分って来る。

以前は、2000年前に突然、救い主の救いと、その教えが
出現したと思っていました。でも、本当は盲目だったと言う事。

救いは永遠から存在する。
この地上のどの歴史のどの時点でも、どの人にも同じ様に
開かれて与えられていた事実が聖書に書いてある。

その救いの内容は、実態は、書かれている。
トラー 預言書 諸書の中に書かれている。
救い=文字で書かれた救いは、丸ごと=
肉体を取ってこられたイエシュア御自身だから。

古代の人達、残りの民はいつの時代も同じ救い主の内容を
実態を、トラー、預言書 諸書=タナックを通して
永遠不変の同じ救い、契約、命=神の似姿の人が取り戻されて
居る事が、語り継がれていたのです。

そして、世界の四隅に同じ様に同じ福音が語られていた
形跡があるのです。

それを信じるか信じないかは、それぞれですが。
しかも、それらを教えられて居たイスラエルの堕落の
歴史の数々。

堕落=主の似姿である事を忘れ、自分が誰であるのか
分からなくなり、別物を求めて、異教の神々の教えと
混ざり合い、混ぜ物の教えと化して、タナックに書かれている、
”命”=神の契約の姿に生きる事を忘れて、彷徨い出た人達に
預言者が忠告していた事に気がつけば、今の時代も
同じだと分かって来ます。

神の言われた”命の言葉” ”命を生み出す生き様” 
”契約の中”に戻って!安全地帯に戻れと言う忠告。

あなたは誰?あなたは自分が神の似姿に変えられている事を
本気で信じているのですか? 本当の自分を今生きれる事を
知らないままなのですか?あなたはどこから来たの?
と主は常に語られている事が分って来るのです。

自分が誰かと言う事が分からなければ、ずっと彷徨ったまま、
自分探しに翻弄し、疲れて行く。

本当の自分を生きる事が出来る=これが福音の根幹。
この実態を生きる事を、生きる事はキリストとある。
それが救いの全貌。
主の与えて下さった命の中に生きる。主の中に生きる。
主に内側も外側も取り囲まれて生きる。
コップの中に水が満たされている様に、どこにも隙間無く
そして、水の中に自分自身も居て、渇かない。

天の国があなたの腹の中にすでに到来していると
ヨハネが伝えた通りです。