もし、聖書に書かれている様々な人が言う所の
縛り付け、律法と思う箇所が、自分の歴史や文化や
風習、習慣、慣しに何ら相反する事が無ければ
”縛り付け”などと微塵にも感じないんですね。
自分基準で聖書を眺めて読んでいる事に気がつきます。
縛り付けと感じるのは、”天の国の神のならわし、風習”が
まさに自分に取って異文化だから、異教の神々の教えの中で
生まれて、育って、学習して生きて来たから、
”縛り付け”に感じるだけだと言う事。
プラス神の言葉に”付けたし” 又は、“削除”しなくては
いけない意識があるのではないかと思います。
神の言葉をそのままを、どうしても受け取れない。
ソースや、醤油を足して味直しして、自分の味覚に合う
所に調節している事に気がつけば分かって来ます。
”自分の味覚、感覚、信条、心情、慣れ親しんで
受け入れ易い事”に無意識に焦点合わせて、
仕分け作業している事に気がつけば、見えて来ます。
軌道修正必要な事=シュバー=神の中に戻る=神の言葉に
絶対的基準とする、神の言葉に合わせる。
アダムとエバの失敗、その根幹にいつも繋がって
行きます。神の言葉を疑う、曲げる、差し引く、付け足す。
だから主が”一点一画”も付け足したり、差し引いたり、
変えてはならないと忠告しているのでしょう。
人間が陥り易い、誤りをちゃんと忠告している。
プラス、一点一画も変わらない事が分かれば、
旧、新なんて概念=人が造り出した概念から
聖書を眺める事が、スタート地点から既に、
ズレている事に気がつけるのです。
私達は異教の神々の教えに気がつかない間に
刷り込み、洗脳されている。これに気がついたら
聖書を曲げないで、自分が異文化 異教の神々の教えに
どっぷり浸かって来たから見聞きしない教え、仰せが、
異物に感じるのだと言う事にまず気がつく事が
必要なのです。
神の教えが変なのではなく、”異教の神々”の環境、習慣
慣し、風習の中で育った自分が初めから”ズレている”
“神の契約”の中で生きる、学習する事が欠落して来た証拠。
神のデザインからズレた環境で育ってしまったと言う事実を
まず知る事です。
異教の神々の世界に生きる人達は、
トラーの世界=神の指定した言葉 生活の全般を
神の言われた事の中に安全に守られて生きると
言う事、意識がない。経験がない。下地がない。
故に、それらを言われた時に、只の縛り付けの
終っている教えと思う。
何故なら異教の神の教えで育ったから。
単純に、それが理由です。
神の言葉が、縛り付けやら、律法だからではないのです。
自分の意識、脳回路が”異教の神々”の教えにどっぷり浸かり、
がっちり捕まえられている事に気がついてないと言う事です。
気がつかないまま、私達は異教の神々の教えの中に
どっぷり浸かりながら、聖書を読み、物事を考えるから
神の言われている意図が見えて来ないのです。
続く