神の言葉に対しての、自分基準の仕分け作業 2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

もし、聖書に書かれている様々な人が言う所の
縛り付け、律法と思う箇所が、自分の歴史や文化や
風習、習慣、慣しに何ら相反する事が無ければ
”縛り付け”などと微塵にも感じないんですね。
自分基準で聖書を眺めて読んでいる事に気がつきます。


縛り付けと感じるのは、”天の国の神のならわし、風習”が
まさに自分に取って異文化だから、異教の神々の教えの中で
生まれて、育って、学習して生きて来たから、
”縛り付け”に感じるだけだと言う事。

プラス神の言葉に”付けたし” 又は、“削除”しなくては
いけない意識があるのではないかと思います。
神の言葉をそのままを、どうしても受け取れない。
ソースや、醤油を足して味直しして、自分の味覚に合う
所に調節している事に気がつけば分かって来ます。

”自分の味覚、感覚、信条、心情、慣れ親しんで
受け入れ易い事”に無意識に焦点合わせて、
仕分け作業している事に気がつけば、見えて来ます。
軌道修正必要な事=シュバー=神の中に戻る=神の言葉に
絶対的基準とする、神の言葉に合わせる。

アダムとエバの失敗、その根幹にいつも繋がって
行きます。神の言葉を疑う、曲げる、差し引く、付け足す。
だから主が”一点一画”も付け足したり、差し引いたり、
変えてはならないと忠告しているのでしょう。
人間が陥り易い、誤りをちゃんと忠告している。

プラス、一点一画も変わらない事が分かれば、
旧、新なんて概念=人が造り出した概念から
聖書を眺める事が、スタート地点から既に、
ズレている事に気がつけるのです。

私達は異教の神々の教えに気がつかない間に
刷り込み、洗脳されている。これに気がついたら 
聖書を曲げないで、自分が異文化 異教の神々の教えに
どっぷり浸かって来たから見聞きしない教え、仰せが、
異物に感じるのだと言う事にまず気がつく事が
必要なのです。

神の教えが変なのではなく、”異教の神々”の環境、習慣
慣し、風習の中で育った自分が初めから”ズレている” 
“神の契約”の中で生きる、学習する事が欠落して来た証拠。
神のデザインからズレた環境で育ってしまったと言う事実を
まず知る事です。

異教の神々の世界に生きる人達は、
トラーの世界=神の指定した言葉 生活の全般を
神の言われた事の中に安全に守られて生きると
言う事、意識がない。経験がない。下地がない。
故に、それらを言われた時に、只の縛り付けの
終っている教えと思う。

何故なら異教の神の教えで育ったから。
単純に、それが理由です。
神の言葉が、縛り付けやら、律法だからではないのです。

自分の意識、脳回路が”異教の神々”の教えにどっぷり浸かり、
がっちり捕まえられている事に気がついてないと言う事です。

気がつかないまま、私達は異教の神々の教えの中に
どっぷり浸かりながら、聖書を読み、物事を考えるから
神の言われている意図が見えて来ないのです。

続く