あなたの”慣れ親しんだ” ”心地よい”
馴染み深い、習慣、環境、風習、文化、慣しを通して神の言葉
を見ていると言う事に、本当に気がつきますでしょうか?
結局詰まる所、自分がどう思うか?どう感じるか?どう
受け止められるかで、神の言葉、神の造られた世界、
デザインの全てを眺めていると言う事なのです。
自分の心情に従い、神の言われる事を、縛り付けだとか、
呪いだとか、律法だとか、神の言葉、神の造られた世界
に対して、自分基準で判定下しているだけなのです。
それこそ、自己中心て事では、無いでしょうか?
神の基準中心ではない、自己中心的な考え方が何より
一番大事な基準だと言う事です。
ではこれは、どうでしょう?
ある文化のクリスチャン達、日本人の、私達が食べない食べ物
を普通に食べます。
”カエル、蛇、マムシ、ネズミ、ヤモリ、トカゲ”それらを、
食べては駄目だよ、神の言われた人間の食べ物ではないから。”
とその人達が言われた時、その文化で育った人達は、
”ええ~縛り付け~、ひど~い”、と思うかもしれませんね。
何故ですか?それらを日常食する事が、彼らにとっては
それが普通の生活の一部=異教の神々の教え、その環境の中で、
生きて居る人達だからです。
知らない間に、異教の神々の教えにどっぷり浸かっている。
異教の神々の環境の中に。それに気がついてみるのです。
異教の神々の教え=イスラエルの神の教えと全く
異なるものです。
イエスさまを信じていても、異教の神々の文化の人が
食べる食べ物=アンクリーン=ヘブライ語で”タメー”これは
訳しにくい言葉ですが、その汚れたものであると神の目から
見たら、汚れた食べ物=人間の食べ物ではない、食べ物を
食べる事は平気さ~。
その感覚がまさに、”異教の神々の教え”の中でどっぷり浸り
培って来た証拠であるものなのです。
異教の神々の教え、文化で育ったからなのです。
私達が初めから、トラーの教えを聞いて育ったなら、
その環境にあり、どの人も汚れた食べ物を食べない
生活習慣の中で育ったとしたら、逆にそれらの
神が言う”タメー”な食べ物に対して、
普通に自然に、拒絶反応を示すのです。
自分の中で、神の言われた、指定した事以外が
”汚れた”タメーな食べ物であると分かるからです。
それらが、神の目から見たら汚れた、人間の食べ物ではないと
初めから疑いなく教えられ、分かっているからです。
全ては自分の生い立ち、育ち、環境なのです。
神の教えを、仰せを、縛り付けとか、窮屈と感じる
それは、何か?つまり、”異教の神々”の教えの中で、
何でも平気で受け入れる、取入れる=イスラエルの神の言葉、
指定した事以外を平気で、取入れて生きる事が、自分達の
生い立ち、生き様、通常生活=異教の神々の教えに
どっぷり浸かる環境=イスラエルの神の仰せの中に
契約の中に生きて来なかった環境と言う事なのです。
異教の神々の人達の中には、”イスラエルの神”の教えは
無いからです。だから、神の言われる事を通して、
その基準での物事の判断、仕分けが出来ない。
神の言われた人間の食べ物と、そうではない食べ物がある
事すら知らないまま来た。
神の言われる教え、仰せと、そうではない事。
それらが何かを知らないまま育ったのです。
その概念、意識、知識、習慣、風習ゼロですから。
普通の日本人なら、うえ~そんなもの 猫 犬、とかげ
ワニ???食べませんよ初めからと、それらは人間の食べ物
ではありませんと言われても、縛り付けとは
感じないですよね。
この点にぜひ、注目、気がついてみて下さい。
”私達は、自分の基準、物差しから聖書を眺めている事”に
気がつく必要があるのです。
自分に受け入れ易い事、受け入れがたい事=自分の育った
環境が何よりの根拠、土台であり、基準になっていると言う事実
です。
律法的とか縛り付けとか、違和感はないとかあるとか、神の
仰せ、言葉=もともとからある“神に造られた人間のデザイン”、
人間の生きる姿に対して、“自分の判断基準、習慣、感情、
信条、心情”優先にして、それこそ、自己中心な基準で、
仕分け作業を頭の中でして、反応しているだけなのです。
続く