風習、習慣、慣れ親しんだ事が、何よりの判断基準になっている事に気がつく 2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

あなたの”慣れ親しんだ” ”心地よい” 
馴染み深い、習慣、環境、風習、文化、慣しを通して神の言葉
を見ていると言う事に、本当に気がつきますでしょうか?


結局詰まる所、自分がどう思うか?どう感じるか?どう
受け止められるかで、神の言葉、神の造られた世界、
デザインの全てを眺めていると言う事なのです。

自分の心情に従い、神の言われる事を、縛り付けだとか、
呪いだとか、律法だとか、神の言葉、神の造られた世界
に対して、自分基準で判定下しているだけなのです。
それこそ、自己中心て事では、無いでしょうか?
神の基準中心ではない、自己中心的な考え方が何より
一番大事な基準だと言う事です。

ではこれは、どうでしょう?
ある文化のクリスチャン達、日本人の、私達が食べない食べ物
を普通に食べます。
”カエル、蛇、マムシ、ネズミ、ヤモリ、トカゲ”それらを、
食べては駄目だよ、神の言われた人間の食べ物ではないから。”
とその人達が言われた時、その文化で育った人達は、
”ええ~縛り付け~、ひど~い”、と思うかもしれませんね。

何故ですか?それらを日常食する事が、彼らにとっては
それが普通の生活の一部=異教の神々の教え、その環境の中で、
生きて居る人達だからです。
知らない間に、異教の神々の教えにどっぷり浸かっている。
異教の神々の環境の中に。それに気がついてみるのです。

異教の神々の教え=イスラエルの神の教えと全く
異なるものです。

イエスさまを信じていても、異教の神々の文化の人が
食べる食べ物=アンクリーン=ヘブライ語で”タメー”これは
訳しにくい言葉ですが、その汚れたものであると神の目から
見たら、汚れた食べ物=人間の食べ物ではない、食べ物を
食べる事は平気さ~。

その感覚がまさに、”異教の神々の教え”の中でどっぷり浸り
培って来た証拠であるものなのです。
異教の神々の教え、文化で育ったからなのです。

私達が初めから、トラーの教えを聞いて育ったなら、
その環境にあり、どの人も汚れた食べ物を食べない
生活習慣の中で育ったとしたら、逆にそれらの
神が言う”タメー”な食べ物に対して、
普通に自然に、拒絶反応を示すのです。
自分の中で、神の言われた、指定した事以外が
”汚れた”タメーな食べ物であると分かるからです。

それらが、神の目から見たら汚れた、人間の食べ物ではないと
初めから疑いなく教えられ、分かっているからです。
全ては自分の生い立ち、育ち、環境なのです。

神の教えを、仰せを、縛り付けとか、窮屈と感じる
それは、何か?つまり、”異教の神々”の教えの中で、
何でも平気で受け入れる、取入れる=イスラエルの神の言葉、
指定した事以外を平気で、取入れて生きる事が、自分達の
生い立ち、生き様、通常生活=異教の神々の教えに
どっぷり浸かる環境=イスラエルの神の仰せの中に
契約の中に生きて来なかった環境と言う事なのです。

異教の神々の人達の中には、”イスラエルの神”の教えは
無いからです。
だから、神の言われる事を通して、
その基準での物事の判断、仕分けが出来ない。
神の言われた人間の食べ物と、そうではない食べ物がある
事すら知らないまま来た。
神の言われる教え、仰せと、そうではない事。
それらが何かを知らないまま育ったのです。
その概念、意識、知識、習慣、風習ゼロですから。

普通の日本人なら、うえ~そんなもの 猫 犬、とかげ
ワニ???食べませんよ初めからと、それらは人間の食べ物
ではありませんと言われても、縛り付けとは
感じないですよね。

この点にぜひ、注目、気がついてみて下さい。

”私達は、自分の基準、物差しから聖書を眺めている事”に
気がつく必要があるのです。


自分に受け入れ易い事、受け入れがたい事=自分の育った
環境が何よりの根拠、土台であり、基準になっていると言う事実
です。


律法的とか縛り付けとか、違和感はないとかあるとか、神の
仰せ、言葉=もともとからある“神に造られた人間のデザイン”、
人間の生きる姿に対して、“自分の判断基準、習慣、感情、
信条、心情”優先にして、それこそ、自己中心な基準で、
仕分け作業を頭の中でして、反応しているだけなのです。

続く