私達は主の似姿にされている。でもこの世、この地上を
歩く上で、たくさんの”ちり”が着いて来る。
自分が意図しなくても、人に傷つけられたり、
気がつかない間に人を傷つけたり、不愉快にしてし
まったり、その他諸々様々な事を潜ってしまう。
また、欠損、喪失の経験をすれば痛む。
例えば、
失業 失恋 家族の死、社会の中での不当な扱い、
無視される、病気、引っ越し 友だちとの仲違い、
誰かに対してのうらみ、つらみ、ねたみ、不平、不満
不信感、不信仰、誤解される、疑われる、仲間はずれ、
悪口を言われる、いじめ、人との不和、誰かの言動に
より傷付つくetc etc
様々な理由、原因で、自分の状態=トーヴが
破壊されていたりする。
それを、主の前で、自分の中から洗い流さないといつかは
噴き出す、ひずみが病気や、心の病を生み出す。
傷ついた感情は奥底に”実態”として、形としてちゃんと
潜んでいるのです。
そして、それらが、押し殺しても、隠していても、
確実に自分を痛めつけている。
体にも、精神にも影響し、病気になる。
苦しくなる。
内臓を”丸ごと”主の食卓に乗せるとは、その意味なのです。
実際の自分の”五臓六腑”に、ミシミシと知らない間に影響を
与え続けているその”原因”は何か?主の目線から主と
共に直視する、眺める。水で注がれて癒されるために。
これがホモロゲーオー=罪の告白と訳されてしまって
居ますが、本当はそう言う意味。
主と共に見て、主の目線から見る事を学び、何が自分を
痛めつけているのか、”主の似姿”の人を生きる事を
阻んで、妨害しているのか知るためです。
そして、”癒される”ためにそうする。
詩編139: 23
神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。
139:24 わたしに悪しき=痛み、ひずみ、悲しみ、主の
意図から外れたもろもろの事=道のあるかないかを見て、
わたしをとこしえの道に導いてください。
本当の自分は=”主の似姿”にされているから。
きよくなるためにそうするのではない。
”癒されるため” ”元の状態に戻るため”
”主と他者との関係が元の状態に修復されるため”
主の言われる事の前提=あなたは”完全”=タミーン
シャローム 欠けの無い聖なるもの=主の上に
特別な意図、デザイン、目的で分たれたものであると
書かれています。
本来の姿に戻るため、自分ではない、自分に属さない要素=
”すす、泥”をすすがれるためです。
ミクバ=水を通り、以前の自分に死んでいる事を
体感し、そして、水から出たら新しく生まれ変わっている
事を確認する=儀式、それもそのひとつです。
体感する。水を通して、実際に体感して、癒される。
ミクバを通る事は、ヘブライの世界、聖書の世界の人達は
たった一回ではなく、繰り返し繰り返し、
節目節目にするのです。
これは、神殿=神の家に入るための事と繋がっています。
これはトピックが別なので、またの時に。
内臓を洗うと同時に、足も洗うと書いてあります。
レビ記 1:9 その内臓と足とは水で洗わなければならない。
こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭(オーラー
のコバーン)としなければならない。これは火祭(イシャー)
であって、主にささげる香ばしいかおりである。
この括弧内の言葉は又別の時に書いてみます。
そして、香ばしい香りとあるその意味も。
イエスさまが”互いに足を洗うと言う事を教えるために
イエスさま自ら、弟子の足を洗ったのです。
あの神殿での儀式と同じ意味です。
弟子が”イエスさまの足を洗う”のではなく、イエスさまが
”洗って下さった”事に意味があるのです。
罪の許しと訳されていますが実は”負う、背負う、自分の上
足かせを剥がされる、引きはがして、どかしてもらった”
そう言う意味です。
主が負った=主が代価を払った裏付けがあるから、私達は
許され、そして他者に対しても許しを宣言出来る。
それは、”主の支払った代価”を持って、相手に許しを
宣言=ただで頂いた”代価”なのです。ここ勘違いして
”あなたを許します”と偉そうに宣言していましたが。。。
主が支払ったのです。”他者へ対する自分の罪の許し”の
その宣言の、その代価。
”主の似姿の人”であっても、互いにちりが付いてしまう事が
ある。それを互いにあらいきよめる。
これ、深い癒しのプロセスです。それを主と共にする。
それが、神の家の奥の間の祭壇=食卓テーブルでの
出来事なのです。
親しく共に住まう=これも大きな意味がある言葉なのです。
家族は、食卓を囲んで、顔と顔とを合わせて
話すのです。そして食べると言う事も、実はすごい
作用があるのです。これは別のトピックなので
また別の時に書きます。
修復、修繕、仲直り、自分と他者との謝罪のチャンスを
持って、修復 癒される、カウンセリングルームです。
仮の罪の許しのため~ではないのです。
主の”完了の業”以外、何も人を救い出す事など出来ないと
書かれているではないでしょうか。
"仮の許し” ”一時的な何かの代替え”=影=劣るもの。
それらの意識から来る教えは、聖書の教えではないのです。
続く