主の似姿に戻るため“癒しと修復、謝る、和解”の場所を設けられている 神のカウンセリングルーム 4 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私達は主の似姿にされている。でもこの世、この地上を
歩く上で、たくさんの”ちり”が着いて来る。

自分が意図しなくても、人に傷つけられたり、
気がつかない間に人を傷つけたり、不愉快にしてし
まったり、その他諸々様々な事を潜ってしまう。

また、欠損、喪失の経験をすれば痛む。

例えば、
失業 失恋 家族の死、社会の中での不当な扱い、
無視される、病気、引っ越し 友だちとの仲違い、
誰かに対してのうらみ、つらみ、ねたみ、不平、不満
不信感、不信仰、誤解される、疑われる、仲間はずれ、
悪口を言われる、いじめ、人との不和、誰かの言動に
より傷付つくetc etc

様々な理由、原因で、自分の状態=トーヴが
破壊されていたりする。

それを、主の前で、自分の中から洗い流さないといつかは
噴き出す、ひずみが病気や、心の病を生み出す。
傷ついた感情は奥底に”実態”として、形としてちゃんと
潜んでいるのです。

そして、それらが、押し殺しても、隠していても、
確実に自分を痛めつけている。
体にも、精神にも影響し、病気になる。
苦しくなる。

内臓を”丸ごと”主の食卓に乗せるとは、その意味なのです。
実際の自分の”五臓六腑”に、ミシミシと知らない間に影響を
与え続けているその”原因”は何か?主の目線から主と
共に直視する、眺める。水で注がれて癒されるために。

これがホモロゲーオー=罪の告白と訳されてしまって
居ますが、本当はそう言う意味。
主と共に見て、主の目線から見る事を学び、何が自分を
痛めつけているのか、”主の似姿”の人を生きる事を
阻んで、妨害しているのか知るためです。
そして、”癒される”ためにそうする。

詩編139: 23
神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。

139:24 わたしに悪しき=痛み、ひずみ、悲しみ、主の
意図から外れたもろもろの事=道のあるかないかを見て、
わたしをとこしえの道に導いてください。

本当の自分は=”主の似姿”にされているから。

きよくなるためにそうするのではない。
”癒されるため” ”元の状態に戻るため”
”主と他者との関係が元の状態に修復されるため”

主の言われる事の前提=あなたは”完全”=タミーン
シャローム 欠けの無い聖なるもの=主の上に
特別な意図、デザイン、目的で分たれたものであると
書かれています。

本来の姿に戻るため、自分ではない、自分に属さない要素=
”すす、泥”をすすがれるためです。

ミクバ=水を通り、以前の自分に死んでいる事を
体感し、そして、水から出たら新しく生まれ変わっている
事を確認する=儀式、それもそのひとつです。
体感する。水を通して、実際に体感して、癒される。

ミクバを通る事は、ヘブライの世界、聖書の世界の人達は
たった一回ではなく、繰り返し繰り返し、
節目節目にするのです。
これは、神殿=神の家に入るための事と繋がっています。
これはトピックが別なので、またの時に。

内臓を洗うと同時に、足も洗うと書いてあります。

レビ記 1:9 その内臓と足とは水で洗わなければならない。
こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭(オーラー
のコバーン)としなければならない。これは火祭(イシャー)
であって、主にささげる香ばしいかおりである。

この括弧内の言葉は又別の時に書いてみます。
そして、香ばしい香りとあるその意味も。

イエスさまが”互いに足を洗うと言う事を教えるために
イエスさま自ら、弟子の足を洗ったのです。
あの神殿での儀式と同じ意味です。

弟子が”イエスさまの足を洗う”のではなく、イエスさまが
”洗って下さった”事に意味があるのです。

罪の許しと訳されていますが実は”負う、背負う、自分の上
足かせを剥がされる、引きはがして、どかしてもらった” 
そう言う意味です。

主が負った=主が代価を払った裏付けがあるから、私達は
許され、そして他者に対しても許しを宣言出来る。
それは、”主の支払った代価”を持って、相手に許しを
宣言=ただで頂いた”代価”なのです。ここ勘違いして
”あなたを許します”と偉そうに宣言していましたが。。。
主が支払ったのです。”他者へ対する自分の罪の許し”の
その宣言の、その代価。


”主の似姿の人”であっても、互いにちりが付いてしまう事が
ある。それを互いにあらいきよめる。
これ、深い癒しのプロセスです。それを主と共にする。

それが、神の家の奥の間の祭壇=食卓テーブルでの
出来事なのです。
親しく共に住まう=これも大きな意味がある言葉なのです。
家族は、食卓を囲んで、顔と顔とを合わせて
話すのです。そして食べると言う事も、実はすごい
作用があるのです。これは別のトピックなので
また別の時に書きます。

修復、修繕、仲直り、自分と他者との謝罪のチャンスを
持って、修復 癒される、カウンセリングルームです。

仮の罪の許しのため~ではないのです。
主の”完了の業”以外、何も人を救い出す事など出来ないと
書かれているではないでしょうか。

"仮の許し” ”一時的な何かの代替え”=影=劣るもの。
それらの意識から来る教えは、聖書の教えではないのです。

続く