変わると変わらないとでは、全く意味が別になる、 太古から語られる同じ福音 2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

プラス、私達異邦人は聖書の著者が”ヘブライ人”である事を
見落としているのだと思います。
著者の性質、生き様、文化、信仰、背景を知らなければ
分からない側面があるのは、どの分野の著書でも同じです。
なぜ”イスラエル”なのか?と言う事が分からないとならないの
です。

神の家の姿=家族の長子=大家族の長としてのお手本の姿と
して選んだ=失敗ばっかりしてますけれど。

神の意図を汲まない限り、聖書を曲げてしまうのです。
イエシュア=ヘブライ人であると言う事、なんでなのか?
とその意味がはっきり分かれば、山頂から360度見渡す地点
から、聖書を眺めて行く事が出来るのです。

彼らの頭の中には誰一人、”トラー” ”契約”
が終わり、神の言葉が変化したなどと考えている人、
生きていた人は誰一人居ないと言う点に関しての盲点を
異邦人は持っているのです。

もし、聖書の著者の中に、神の言葉が変化して行くのだと
考えている人がいたとしたら、その人を、初めから”聖書著者”
には、神は選べないはずです。
永遠不変の神の言葉=神の意図通りを書き表す作業=
霊感により聖書を書くと言う事だからです。

さて、前回の続きですが、福音の全貌はどこで語られて
いたのですか?

初めの初めから語り継がれた教えを、文字として刻んだ。
”永遠の契約”として、与えられたトラーの中に
書かれているのです。
これは、代々永遠に変わらない。

鉛筆で書いた様に消しゴムで消せない。
”主の御手で刻んだ”とある通り、永遠不変です。
刻んだら消えない。取り消せない。
石に刻んだ。意味があるのです。
主は、後ほど変更する様な事を主の御口から発っすると
言う発想は、本当に人間の発想だと分かります。

このレビ記の中に描かれている事は奥が深い、救い購い、
イエスさまの完了の業の全貌が書かれています。
同じ福音が、いや太古の人にまず語られた同じ福音を
後の私達が同じ様に聞いていると書かれています。

私達は肉眼では見えない”天の神の家” 救いの全貌を
地上の肉眼で見える形で、体験しているのです。
もちろん、今は神の家は壊されています。
だから、そこでの様々な出来事は今されていません。
影=移り行くもの、仮のものではありません。

本体=影=本体を目で見る事が出来ず、地上に映し出される
その本体と同一の影=その目では見えない同一の実態、
同じ中身を、私達は聞いているのです。

ヨハネの手紙の1の最初に書かれている、
”手でふれ目で見て、匂いをかいで、五感で体感した
福音の実態=神殿で教えられた出来事
コバーンの儀式を通して、神殿の中に様々なもの=
ひとつひとつに救い購い 主の似姿の人の意味が
ある、その事を語っているのです。
目で見えない天の神の家の現実、実態、主の似姿の人
それを生きる事。

見ないで信じる者は幸いと言われた通り。

でも神殿が崩壊されるまで、弟子もパウロも変わらずに
ヘブライ人として、主の命を生きるものとして、
神殿を中心に生活していたのです。

これは、異邦人の私達には余り理解出来ない事柄ですね。

さて、天の祭司である人達は、"メルキゼデク"に属する祭司が
一体何を教えているのかを、知らなくてはならないのです。
それが、分からなくては、どうやって他者に救いの全貌を
知らせる事が出来るのか?と言う事なのです。

続く