天に実在する神の家、そっくりそのままの型通り、地上に神の家
を人の手で作る様に神はモーシェに伝えました。神が伝えた通り
そっくりそのままを作らせました。異教の神々の寺院、神殿は
全て人間が考えて作ったものですが、イスラエルの神は神の子らに神が伝えた通りのレプリカを復元させたのです。この違いが
見えますか?宗教は人が考え出したものであり、神の言葉=教えは神から直接人に伝えられた神の口から語られた言葉なのです。
だからその神の言葉を差し引き、付け足し人の考えで色々変形させてはダメなのです。神の伝えることが歪んで伝わってしまう、神の意図がそのまま直に伝わらなくなってしまうからです。
子羊の血の代価で、偽の主人=エジプト=偽の神々の所有から
贖い出された人々は、神のもの=神の花嫁、神の所有となりました。
モーセの五書に記されている様々な出来事は、それらを通して神がイスラエルの神がどんなお方であるのか、福音、イエシュアの完了の業の内容を伝えているものです。
屠られた子羊の血はエジプトの鴨居に塗られた子羊の血=イエシュアの血で覆われ死が過越した事を教えています。
福音、救い、贖い、許しは、永遠の中から存在しているものです。歴史のどの地点でも人は神の現実にアクセスする事が可能である事が記されています。
2000年前に、贖い、救い、許しが有効になり、神との関係=聖霊が人の内側に初めて住まう様になったと考えているのは、
聖書に記されている事実に目を留めていないから、聖書に書いてある内容がはっきりと見えていないからです。
エペソ1: 4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
この世界の礎が創造される前に既に私達は神の中に存在し、聖別され、選ばれていた事実が記されています。人の理解は遥かに超えた事が書いてありますから、その通りをまず受け取る事です。2000年前に、全て、救いが初めて有効、開始されたのではないのです。
永遠の中、神の中に既に全ては完結されていたからです。
人間の親でも子供が生まれる前から色々準備するでしょう。
まして神はこの世界を造られる前から全てを完了しているのです。人がズレたから慌てて色々と対処や救済策を考え出しているのではないのです。最初から全てが用意されていた!!!
7日目、シャバットで止まられた。全てが完了し付け足すものが
何も無くなったから止まられたのです。全ては完了している。
福音は1つです。肉的生まれのユダヤ人であろうが、異邦人であろうがどの時代に生まれようが、救いは1つしかない!救い=
イエシュアを通してでなければ誰も父の元に来る事が出来ない!神の伝える永遠の事実だけに立って考えれば、分裂した2つの救いの方法や人種により別の契約や別の教えが存在する!と言う
思想は完全に空想話である事を聖書の事実から発見する事が出来ます。
以前に書いた1コリント9章の内容で、トラーの下にいる、いないと言うパウロが解説している意味と同じく、あるユダヤ人は
肉の生まれだけで神の国の一員に既になっていると考える人達、
詰まり、新生体験=イエシュアを通して新しく創造され生まれると言う事を未体験のユダヤ人たちを指して、パウロは”トラーの下”に居ないと言っているのです。彼らの様な考えの下にパウロはもういない!と言っているのです。なぜならイエシュアを通して新生体験し新しく創造された人になっていたからです。でも彼らイエシュアを未だ救い主として知らない同胞のユダヤ人に対してもパウロはイエシュアを伝えようとして、彼らとの交わりを絶たないでいたのです。
だからイエシュアを救い主として知らな人には、人が神であると言う事は神への冒涜であると、5回も鞭打ちの刑を彼らからパウロは受け、それまでしてイエシュアを伝えるために彼らとの関係を続けていたと書かれているのです。
2コリント11: 24
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
ギリシャ人にはギリシャ人、ユダヤ人にはユダヤ人とパウロが言う意味は、人種によりトラー=神の言葉を曲げる!などと一言も言っていない事をはっきり理解しないとならないのです。
神が与えた救いは全人類にどの時代にも1つの方法、同じ1つの福音しかないのです。神の言葉=トラーの下に居ないなどとパウロが言うわけないし、そんな事はパウロは話してなどいないのです。
ヘブル1:1神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、
また多くのしかたで先祖に語られたが、
福音〜神の修復の業、救いの業は、神の考えを伝える代弁者=
預言者達を通して神の伝える内容が語られました。それらが全て=聖書=モーセの五書、預言書、諸書となっています。
福音書以降は、預言者達が記した神の言葉=地上に実際にイエシュア=救いが来られてタナック=トラー、預言書、諸書に記された事を地上で証拠として生きられ、見せられた、その記録が書かれているものです。使徒は異邦人の世界へも大々的に同じトラー神の婚姻契約が伝えられ、パウロの書簡はトラーをそれぞれの場所で生きる知恵を伝授、アドバイスしたもの。そして黙示録はエデンを出てエデンに戻る、最後は世界は1つ神、1つ家族、1つの神の言葉を生きる=再更新される契約同じ契約を皆が頭脳に割礼を受けて生きる事に戻ることが記されているのです。
ヘブル1:2この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、
御子によって世界を創造されました。
イエシュア=御子により語られた言葉は、父の言葉です。
モーセの五書とは別の言葉や教えは語られていません。
1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
4御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。御子は天使にまさる
天使=神のメッセージを伝える、預言者、その他にまさる存在が
イエシュア=救い主である事が書かれています。
なぜでしょう。モーセやヨシュアは彼らの中では一番偉大な預言者であり神の言葉を取り次いだ人達である事を読者は知っていたのですが、それら全ては、本体を映し出す影であるのです。本物のイエシュアを伝える代弁者=預言者であり、大元はメシア=
イエシュアである事が強調され、再確認しているのです。
ヨハネの福音書の最初は、創世記と同じ言葉で記されています。
ヨハネ1:1
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ベルシート=最初に 最初の中に、言葉=ダバル=があった。
神は言葉の神であり、神が言葉を発して、この世界の全てが物理的に出現したのです。言葉=神ご自身の実態です。
イスラエルの神は言葉の神であり、人に語られる神です。
異教の神々の様に無言ではない。異教の神々が言葉を語られこの世界が造られたのではないのです。偽の神々=偽物=サタン。
古代の人々は神が伝える通りに、神=言葉=トラーと理解していました。ミシュカンの中で一番奥の至聖所=家の中で一番大事な場所に、一番大事なもの=神の言葉を保管する様に教えました。
人の思想や意識とは違う、神の言葉は、命を生み出すものであり
厳重にガードし人は神の言葉を生きる事を目で見て分かる様に
ミシュカンの中で教えています。
神の憐れみをヘブライ語で”レヘン”と言う言葉です。この言葉は
命を育む場所”胎”と言う言葉と同じ言葉なのです。
神の言葉=命が生み出され育む。人の体で見ても物理的に同じに見えます。チェラビムが神の契約の箱をガードしています。
エデンの園に立つ命の木をガードする道に立つチェラビム。
ここに戻れ!神の言葉=イエシュアを通して元の生き方に戻る事
を目で見える形で教えているのです。
全ての命は神の言葉により生まれた事実があるのです。
ヨハネ1:2この言は、初めに神と共にあった。
1:3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:17トラーはモーセを通して与えられたが、恵みと真理は
イエス・キリストを通して現れたからである。
1:18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる
独り子である神、この方が神を示されたのである。
子を見たものは父を見たとイエシュアが言われました。父の言葉=モーセの五書しか語らないとイエシュアが言われました。
このヨハネ1:17の箇所、勘違いして読んではならない所でもあります。言葉=神である!と伝えています。神の言葉=見えない神の現実、誰も父を見たことがない!その父=イスラエルの神を言葉で表したものをモーシェに託し、人に文字として証拠としての婚姻契約を神は与えたのです。
神の言葉=トラーは救いを得るために与えられたのではないこと
をよくよく理解しないとなりません。なぜなら救いは1つの方法しかない!それは何ですか?人の行いや努力では得られない!
ユダヤ人も異邦人もイエシュアの業を受け取り新しく生まれ変わる事がなければ、正真正銘の神の国の一員になれないのです。
どんな儀式をしようとも、異邦人がユダヤ人に改宗する儀式=割礼と言う名前が付いた儀式をしようが、人がトラーに書かれている事をどんなに忠実に生きようが、生まれ変わる=イエシュア、子羊の血の贖いで神の前に義とされている実態は、その様な行いや儀式で得られる性質のものではないのです。
だから、古代の人達、ユダヤ人達はトラーを生きて神から義とされていたと言う異邦人クリスチャンの聖書解説は聖書に記されている事とは異なる、別の教えなのです。誰一人、どの時代にも
何かをして自分自身を救えない、だったらイエシュアのされた贖いの業は意味がなくなり、要らないと言う事になる、イエシュアを通さないで他の方法で救われようとするなら、それは恵みを
捨てた行為と記されているでしょう。
その所をはっきり理解すれば、何をパウロが話しているのか真相が見えて来るのです。
そして、その後救われた人=聖霊を内側に頂いた人は、イエシュアと同様、イエシュアが生きられた性質=神の言葉=モーセの五書に記された神の似姿に造られた人間本来の生き方が出来る様にされている!と神が伝えているのです。これ本当に異邦人クリスチャンの世界では誤解している内容なのです。神の言葉を生きる
律法主義!と主張するのですが、イエシュアは律法主義を生きよ
などと教えていません。
神の言葉を捨てたら一体その人は何を生きるのですか?神が神の言葉、神の口から出た1つ1つの言葉で生きる!とイエシュアも
言われました。はっきり目覚める。イエシュアが語られた全ての言葉はどの言葉ですか?モーセの五書!!!!モーセの五書を
説明する書が、預言書=イザヤと言うのは、イザヤ書が頻繁に引用されるから預言書はイザヤと出て来る、そして詩篇=諸書!それ以外の別の教えをイエシュアはされていない!父の言葉だけを語る!とイエシュアが言われた意味をはっきり把握し理解しないとならないのです。
異邦人が勝手に作った教え=神の言葉は無用、不要、廃れた、
終わり!その声の出所はあのエデンの園の敵=神の言葉を妨害し撹乱する声である事を知って下さい。
イエシュアがマタイ4:4、荒野で悪魔の大御所と対決した時
に語られた言葉は下の箇所に記されている言葉です。
神の口から出た一つ一つの言葉=モーセの五書に記された言葉
の事を指して聖書ではずっと語っているのです。
申命記4:2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
2あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
申命記8:3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
続く