日本とそして、海外でも同時期に大きな震災に見舞われている
この今の現状。
こんな時、病気の人、お年寄り、妊婦さん、
乳飲み子を抱えているおむつをしている子どもを持つお母さん、
そして普通の人も、日常生活が奪われて、普通に暮らせなくなり、
先きの見えない不安で、大変な状況を強いられている事に、
本当に言える言葉が出て来ません。
災害ではなくても、今日もこの日、それぞれに様々な事に
直面しているのです。
先日友人のご主人が突然死してしまいました。
何事もなく、次の日には亡くなっていた。
こんな事が昨年から立て続けにあります。
いつどんな事が、何が起こるのか、誰も予測など出来ない。
一秒先の事は誰も知らない。分かっている、予定していても
分からない。
そして、これこれがあるから大丈夫さ~なんて、そんな
不確かなものを頼りに、安心してはならない。
信頼出来る”只唯一のお方”だけを、頼りにする。
思いました。
私達は、与えられている”今”を生きる事、大事な事
は、主に与えられた”主の姿の本当の自分”の命を生きる。
別の姿では一秒足りとも生きない。恵みを無駄にしない。
家族と、周りの隣人を大事にして行く。
与えられている事を、感謝して、主の意図通りを生きる。
それなのだと本当に分かります。
夕暮れまで怒ったままではいけないと言われるのは、
それは、自分と他者を破壊するから。
主のデザインを破壊するから。
もし、喧嘩したままで口も聞かず、仲直りする時も持たずに
こんな形で死に別れてしまったら、一生後悔するのでしょう。
人は、主の似姿に造られている事に気がついて
ないだけなのです。
本当の自分で生きない時、痛いのは本当の自分が取戻されて
いるから。
だから、全ての人と主の意図通り=シャローム=欠けの無い
状態を保つ、健全な状態の関係の中に留まれと言う事
理解出来ます。
こんな酷い出来事が世の中にたくさんある。
だから神さまって酷い、いや神は居ないと言う人も居ます。
でも、この世に在っては、困難、艱難は避けられないと
言う事です。そうイエスさまも言われたでしょう。ヨハネ17章
最後の祈りの中で。
それにどう”対応” ”受け止める” ”耐える” ”対処”
出来るのか?の違いがあるのですね。
そして、常に忘れてはならない事。どんな事があろうとも
私達は、主の中の外側には出て居ない。
主の中に、常に居る=天の現実の中に、この世の出来事に
直面しても、現実は主の中。主の生ける水で運ばれて行く。
友人が2011年東北で震災に遭遇した時、寒さと、コンビニ
に行けども食料は無く、4時間並びは普通の事。
でも並んでいる皆の中で、主の愛を感じたと言っていた。
皆が皆を気遣って、優しい思いが溢れていたと。
いつもは触れ合わない、関わらないと言う態度が
何か違うものに変わっていた。
家の中は灯りもない。怖い思いをする中、皆で同じ
ひとつの家に避難して、少ないものを分け合い、支え合った。
でも、その時”主を目の当たりに皆で体験した”と言って
いました。
皆が助け合う状況、”本来の人間の姿”を”皆”が生きると言う、
それが生み出されたからですね。
主を体験した=皆が互いに助け合い、思いやりと、気遣い
”トラーに描かれている本当の人間の姿”で、互いに対応し合った
その中に”主の姿” ”主の栄光” ”主の臨在” ”溢れる主の愛”
=主を体験したと話してくれた事思い出しました。
人が生きる中で、主の”デザイン”通りを生きるなら、
そこに主の現実、臨在が現れるのですね。
理屈ではなく、生き様の中に”主”が現れる。
それを皆が感じる、体験する。主の現実を体験する。
これから来る過ぎ越。
エジプトの10の神に対する裁き=災いの後、初子の死。
そして、エジプト脱出。その後、あの荒野で40年
生活をした事。
家を後ろに捨てて、旅路に出た。
トイレは、食事は、出産は??
その中で、サンダルも衣服も40年もすり切れずに居た。
主が居られたからですね。主が導き、養い、保護したから。
そんな事を思いながら、この過ぎ越も意味深く、
今与えられている 今日この時、”主の定め”の時を、今年も
”主に購い出された”その、追体験を、家族と皆として
行きたいと思っています。