震災に思う חג כשר ושמח  過ぎ越 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本とそして、海外でも同時期に大きな震災に見舞われている
この今の現状。
こんな時、病気の人、お年寄り、妊婦さん、
乳飲み子を抱えているおむつをしている子どもを持つお母さん、
そして普通の人も、日常生活が奪われて、普通に暮らせなくなり、
先きの見えない不安で、大変な状況を強いられている事に、
本当に言える言葉が出て来ません。

災害ではなくても、今日もこの日、それぞれに様々な事に
直面しているのです。
先日友人のご主人が突然死してしまいました。
何事もなく、次の日には亡くなっていた。
こんな事が昨年から立て続けにあります。
いつどんな事が、何が起こるのか、誰も予測など出来ない。
一秒先の事は誰も知らない。分かっている、予定していても
分からない。
そして、これこれがあるから大丈夫さ~なんて、そんな
不確かなものを頼りに、安心してはならない。

信頼出来る”只唯一のお方”だけを、頼りにする。

思いました。
私達は、与えられている”今”を生きる事、大事な事
は、主に与えられた”主の姿の本当の自分”の命を生きる。
別の姿では一秒足りとも生きない。恵みを無駄にしない。
家族と、周りの隣人を大事にして行く。
与えられている事を、感謝して、主の意図通りを生きる。
それなのだと本当に分かります。

夕暮れまで怒ったままではいけないと言われるのは、
それは、自分と他者を破壊するから。
主のデザインを破壊するから。

もし、喧嘩したままで口も聞かず、仲直りする時も持たずに
こんな形で死に別れてしまったら、一生後悔するのでしょう。
人は、主の似姿に造られている事に気がついて
ないだけなのです。
本当の自分で生きない時、痛いのは本当の自分が取戻されて
いるから。

だから、全ての人と主の意図通り=シャローム=欠けの無い
状態を保つ、健全な状態の関係の中に留まれと言う事
理解出来ます。

こんな酷い出来事が世の中にたくさんある。
だから神さまって酷い、いや神は居ないと言う人も居ます。
でも、この世に在っては、困難、艱難は避けられないと
言う事です。そうイエスさまも言われたでしょう。ヨハネ17章
最後の祈りの中で。

それにどう”対応” ”受け止める” ”耐える” ”対処”
出来るのか?の違いがあるのですね。
そして、常に忘れてはならない事。どんな事があろうとも
私達は、主の中の外側には出て居ない。
主の中に、常に居る=天の現実の中に、この世の出来事に
直面しても、現実は主の中。主の生ける水で運ばれて行く。


友人が2011年東北で震災に遭遇した時、寒さと、コンビニ
に行けども食料は無く、4時間並びは普通の事。
でも並んでいる皆の中で、主の愛を感じたと言っていた。
皆が皆を気遣って、優しい思いが溢れていたと。
いつもは触れ合わない、関わらないと言う態度が
何か違うものに変わっていた。

家の中は灯りもない。怖い思いをする中、皆で同じ
ひとつの家に避難して、少ないものを分け合い、支え合った。
でも、その時”主を目の当たりに皆で体験した”と言って
いました。
皆が助け合う状況、”本来の人間の姿”を”皆”が生きると言う、
それが生み出されたからですね。

主を体験した=皆が互いに助け合い、思いやりと、気遣い
”トラーに描かれている本当の人間の姿”で、互いに対応し合った
その中に”主の姿” ”主の栄光” ”主の臨在” ”溢れる主の愛”
=主を体験したと話してくれた事思い出しました。

人が生きる中で、主の”デザイン”通りを生きるなら、
そこに主の現実、臨在が現れるのですね。

理屈ではなく、生き様の中に”主”が現れる。
それを皆が感じる、体験する。主の現実を体験する。

これから来る過ぎ越。
エジプトの10の神に対する裁き=災いの後、初子の死。
そして、エジプト脱出。その後、あの荒野で40年 
生活をした事。
家を後ろに捨てて、旅路に出た。
トイレは、食事は、出産は??
その中で、サンダルも衣服も40年もすり切れずに居た。
主が居られたからですね。主が導き、養い、保護したから。

そんな事を思いながら、この過ぎ越も意味深く、
今与えられている 今日この時、”主の定め”の時を、今年も
”主に購い出された”その、追体験を、家族と皆として
行きたいと思っています。