原典聖書に無い言葉が翻訳聖書に付け足されている例 ヘブル8章 永遠に変わらない契約 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヘブル8章7節

もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、
あとのものが立てられる余地はなかったであろう。

これ、そのまま読めば、以前の契約に欠け、不完全さが
あるから後の新しい契約が立てられたと読めますね。
普通に何も知らないままだった場合は。

この”契約”διαθήκη, diathēkēと言う言葉は、原典聖書には
無い言葉であり、勝手に人間の手により付け足されたものです。
付け足してはなりません。主の言葉を曲げてしまう。


この箇所は、契約の話ではなく”Piresthood" 地上の祭司と
天の祭司そのPriesthoodの話をしているのです。
翻訳でも、何に関した話しているのか捉えられれば、
これは、契約ではなく、”祭司職” Piresthoodに
付いて話している事は明らかです。

ここ、もし~と それなら~と、書いてあるのですが、
これ元にあるヘブライ語を知れば、この様な形態の
文法は特異なのではないことが分かります。
この様な形の”不完全な”形。
その形態の文章は、もし~が来たら、もしに対しての
何々であると答えが対比して出て来る方式なのです。
もし~と それなら~は何を意味して
書かれているのでしょう?

アロンの家系に属する、レビ族の地上の祭司達の
職が主の完全な救いのプランを全うするならば、それならば
本物の大祭司”メルキゼデク”に属する大祭司は
不必要でありましょうと言う事です。


ダビデの主=イエシュア御自身が”永遠にメルキゼデクの
位に着く大祭司であると宣言したのです。” 詩編110:4

主以外=神御自身以外、私達を購えるお方は世界に
存在しない。被造物も私達を購い得ない。
なぜ?主が全ての創造主、所有者だからです。
だから天と地のバイヤー=買い戻し人と書かれているのです。

地上の祭司達は、天にある現実=神の家を
”地に映し出された” 目で見えない天の現実を、
肉眼で見える地上の”神の家”の中で
役割をして、それを地上再現して教える役割を
していたのです。

その神の家に仕える 神の家の詳細=義とされた主の似姿の
人達の生きる全てを、トラーに描かれた詳細を、
神殿の中の儀式を通して人々に教える、
その役割を担っていたのです。

本体と影と訳されていますが、私達は目では見えない
天の現実を地で生きれる事を知らされたのです=それが
地上での幕屋であり、神の家=神殿の中の出来事なのです。

だから、その本体であるお方は完全な方。
そのお方が来たら、地上でのレビ族=人間の大祭司職は、
終わりが来ますね。

大本 本体=メルキゼデクの位に着いている大祭司=
イエシュアが実際に地上に登場するのですから。

地上での天の大祭司の再現=レビ族の大祭司です。

目の前でそのまま”神” 大祭司が登場するのですから。
肉眼で直接見える本体が現れる。

でも、肉眼では見えない本体の内容、実態は、地上の
レプリカ、天の家=そっくりそのままのものを再現し、
肉眼では本体は見れないけれど、、その内容そっくり
そのままを地上でも目で見える形で=五感を通して
学習出来るその儀式が神殿で繰り広げられ、教えられ
ていたと言う事です。

見ずに信じる者は幸いの如くです。

始めから神の契約が終わり、不完全なんて
話はしてないのです。

プラス神の言葉は永遠に完全なのです。


私達は、”言葉”=神の実態 コミュニケーション手段を
通して、目に見えない神の実態、天の現実を私達の内側に
取入れているのです。それが地上の”神の家” 神の臨在が
肉眼で見えたのです。
それと同じ事です。

天にある現実が地に表される。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。

本体はこの肉眼で今見てないけれど、その実態を地上で見て
その本体の意味そっくりそのままを理解すると言う事が
理解出来れば、何を主が話しているのかクリアーに
理解出来ます。

影が不完全とか、神の言葉が不完全とかそんな領域の
話ではないのです。これ主の真実に留まり、
主の言われる意図を そのまま捉えて、
考え続ければ脳回路の枝が出来て何を
話しているのか、はっきり理解出来ます。