ヘブル8章7節
もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、
あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
これ、そのまま読めば、以前の契約に欠け、不完全さが
あるから後の新しい契約が立てられたと読めますね。
普通に何も知らないままだった場合は。
この”契約”διαθήκη, diathēkēと言う言葉は、原典聖書には
無い言葉であり、勝手に人間の手により付け足されたものです。
付け足してはなりません。主の言葉を曲げてしまう。
この箇所は、契約の話ではなく”Piresthood" 地上の祭司と
天の祭司そのPriesthoodの話をしているのです。
翻訳でも、何に関した話しているのか捉えられれば、
これは、契約ではなく、”祭司職” Piresthoodに
付いて話している事は明らかです。
ここ、もし~と それなら~と、書いてあるのですが、
これ元にあるヘブライ語を知れば、この様な形態の
文法は特異なのではないことが分かります。
この様な形の”不完全な”形。
その形態の文章は、もし~が来たら、もしに対しての
何々であると答えが対比して出て来る方式なのです。
もし~と それなら~は何を意味して
書かれているのでしょう?
アロンの家系に属する、レビ族の地上の祭司達の
職が主の完全な救いのプランを全うするならば、それならば
本物の大祭司”メルキゼデク”に属する大祭司は
不必要でありましょうと言う事です。
ダビデの主=イエシュア御自身が”永遠にメルキゼデクの
位に着く大祭司であると宣言したのです。” 詩編110:4
主以外=神御自身以外、私達を購えるお方は世界に
存在しない。被造物も私達を購い得ない。
なぜ?主が全ての創造主、所有者だからです。
だから天と地のバイヤー=買い戻し人と書かれているのです。
地上の祭司達は、天にある現実=神の家を
”地に映し出された” 目で見えない天の現実を、
肉眼で見える地上の”神の家”の中で
役割をして、それを地上再現して教える役割を
していたのです。
その神の家に仕える 神の家の詳細=義とされた主の似姿の
人達の生きる全てを、トラーに描かれた詳細を、
神殿の中の儀式を通して人々に教える、
その役割を担っていたのです。
本体と影と訳されていますが、私達は目では見えない
天の現実を地で生きれる事を知らされたのです=それが
地上での幕屋であり、神の家=神殿の中の出来事なのです。
だから、その本体であるお方は完全な方。
そのお方が来たら、地上でのレビ族=人間の大祭司職は、
終わりが来ますね。
大本 本体=メルキゼデクの位に着いている大祭司=
イエシュアが実際に地上に登場するのですから。
地上での天の大祭司の再現=レビ族の大祭司です。
目の前でそのまま”神” 大祭司が登場するのですから。
肉眼で直接見える本体が現れる。
でも、肉眼では見えない本体の内容、実態は、地上の
レプリカ、天の家=そっくりそのままのものを再現し、
肉眼では本体は見れないけれど、、その内容そっくり
そのままを地上でも目で見える形で=五感を通して
学習出来るその儀式が神殿で繰り広げられ、教えられ
ていたと言う事です。
見ずに信じる者は幸いの如くです。
始めから神の契約が終わり、不完全なんて
話はしてないのです。
プラス神の言葉は永遠に完全なのです。
私達は、”言葉”=神の実態 コミュニケーション手段を
通して、目に見えない神の実態、天の現実を私達の内側に
取入れているのです。それが地上の”神の家” 神の臨在が
肉眼で見えたのです。
それと同じ事です。
天にある現実が地に表される。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
本体はこの肉眼で今見てないけれど、その実態を地上で見て
その本体の意味そっくりそのままを理解すると言う事が
理解出来れば、何を主が話しているのかクリアーに
理解出来ます。
影が不完全とか、神の言葉が不完全とかそんな領域の
話ではないのです。これ主の真実に留まり、
主の言われる意図を そのまま捉えて、
考え続ければ脳回路の枝が出来て何を
話しているのか、はっきり理解出来ます。