世の中忙しい。
自分は暇でも、相手が忙しければ、ゆっくり会って、
食事して、楽しく話して、お互いの存在の中に入っていく
親しい交わりは余り出来ないでしょう。
以前は、子供が小さくて、お母さんお父さんは忙しい。
子供の話もゆっくり聞いてやらず、子供が考えている事
一緒に向合い話し合う時間もない。
勉強やったの、何何出来ているの?習い事は~練習したの?
そんな事ばかり、がみがみ言っている親。。。。
励まし、認めて上げる、ほめてあげる、その子の存在が
何より尊いユニークであること、いや神の似姿の人である事を
本当に 教えて上げられているのか?偽の自己像を叩き込んで
いるのか?
”お母さん聞いて聞いて。一緒に遊んでよ。”
子供は親の鏡。。。。いや 逆でしょうね。
親の鏡に子供は自分を映し出し、自分が誰かを
学んで行ってしまうのです。
偽の鏡は世間にはたくさんあります。
学校で、社会で、会社で、偽の鏡に自分を映し出し
ずっと評価されて行く。エジプトの基準でずっと自分を
計られる、量られる、測られる。
自分のユニークさ、素晴らしさ、神に造られた人である
その性質を覆いかぶす、包皮。肉の目。ベールで覆われて
本当の自分が見えない、分からなくなったまま迷い出る。
神の目から見えている自分を知らないままずっと生きる。
この世の基準=エジプトの基準。頑張りで、努力で
一生懸命到達して、認められよ、評価されようの世界に
ずっと生き続けて行く。目に見えた成果のある人=優れた人。
特に何も出来ない人=価値無い人などと見られてしまう。
神の目から全てを見る事を、知らないまま。
そんな風に、エジプトの基準を刷り込まれた子達が大きくなり、
それぞれの道を歩み出し、家族を作り、また忙しくなる。
何を大事にすべきなのか、分からないまま大人になる。
大事なのは、成果、学歴、高収入、ハイパフォーマンス。
自分の命の質を振返らないまま、
自分の命が損なわれて時が過ぎて行く。
その様に、エジプトの基準を刷り込まれ、それぞれの特性
無視され、互いに自分ではない姿で同じ土場で競い
合わされてしまう。
子供達が大きくなり、社会に出て、また親が通って来た
同じ道を辿る。
何を大事にガードしなくては、ならないのか?
を忘れさせられて行く。
たとえ全世界を得ても、まことの命を損じたら、何の特が
あるのでしょうか?そのものです。
レンガを積み上げる事で忙しく、自分の命の質を考える
暇もなく、本当の自分が誰かにも出会うこともなく、
夫婦、家族との関係を親密に築き上げる時間も持たず、
そして、そうして育った子達は今度は、同じ事を繰り返す。
親にも余り連絡する暇もない。
今度は親の方が、”何で連絡もして来ないの。”と言い出して、
立場逆転~。
”ごめんごめん 忙しくてさ、また時間が出来たら
連絡するね。”
今度は、親が子供にふられる立場になる。。。
世の中で、何れだけの人が、神の似姿の本当の”自分”を知り、
生きる実態を姿を心底、喜び味わい、エンジョイし、
主との究極の関係を楽しみ、主のデザインされた麗しい人との
関係を楽しみ、喜び、溢れながら毎日を生きて居るのだろう。
2に続く