アブラハムの契約とモーセの契約の違いは何? 2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

あなたが命=神の言われる事を選び、その愛の関係の
中に生きるのか、生きないのかは全くもって自由意志。
自己選択に託されている。

その愛に生きる、麗しい究極の親しさ、全宇宙の王の王、
主の主、自分の造り主と顔と顔を合わせるその関係に、
生きる人達は、数々の主からの祝福や約束、喜び楽しさが
与えられる事が書いてある。

これ、“義”と認められるためのものなんて、誤解していては
始まらないのです。全然違うものにすり替えられてしまう。
主の婚姻契約が。

もう”義”とされた前提が存在している、有るでしょう。
誰の手柄でもない、”完全無条件”に与えられている。

永遠からある“義”とされている前提を、
アブラハムに示されましたね。

そして、割礼という、代々子孫にずっと受け継がれて行く
証拠としての、印まで与えられている。
だから、この印は終らない。契約が存在している印として、
割礼も永遠に繋がれて行くのです。

既に義とされている事実。人間の側では何もしていない。
ただ神の言われる事をそのまま信じただけ、
受け取っただけです。それだけ!
その事実=神の家の子=神の似姿の人前提での
話なのです。

モーセの婚姻契約は条件があります。
選択権は、完全に人に託されている部分が違う。

”義”とされた事は無条件。でもその”愛” 夫との
親しい婚姻関係の姿で生きるのかどうかは、花嫁の
自由意志。強制的に愛を要求していないです。

自由選択。その命を大事に、夫と向合って、
究極の親しい関係で生きるのか生きないのかは、
人間の意志に任されている。

でも、その愛に生きないのなら、主の言われている事が
分からない、見えない、自分の本当の姿を知らないまま行く、
究極の麗しさ 楽しさ、喜び知らないまま、以前の奴隷状態の
まま人生を命を生み出さない生き方で行ってしまう。

”たとえ全世界を得てもまことの命を損じたら、何の特が
あるのでしょう?”天国地獄行きの話ではない。

本当の命 本当の自分 まことの主人との愛に生きないなら
全ては虚しい。

そして、”あなたは、私を愛するか?”と、三度ペテロに言った
最大限の確認と、三度=最大限に否んだペテロへの
癒しの言葉。
イエスさまの言葉と繋がりますね。
その声が聞こえます。


続く