前回の記事の続きです。
新しい年代の最後の三分の一の聖書の中に書かれている
”割礼と言う言葉の意味。
一世紀当時の"ユダヤ教"と言う
宗教の世界の造語”割礼”=救われるためにユダヤ人になる
儀式を”割礼”と言っていたのです。
アブラハムの”割礼”を意味して”割礼”と
話されているのではありません。
ユダヤ人として生きる、以前の自分に死に、
ユダヤ人に生まれ変わると言う宣誓の儀式=つまりイエスさまを
信じても、トラーを100%生きるそして、ユダヤ人になる。
それを”割礼”と呼んでいたのです。
救い、購い儀とされている事はそんな事して得るものではない。
神の似姿の人が永遠から取戻されていて、与えられている事に
気がついて、受け取るだけ。
ユダヤ人に変身しなくても良い。DNAは変えられない。
でも変わる事が一つ。
”義”=神の似姿とされている永遠から取戻されている本当の
自分で生きる事を始められる様になっていた事に
気がついて、その姿に留まる。
夫だけを熱心に見つめて、その心は、頭脳は、
夫からぶれない,それない、他の人に心を傾けない。
花嫁になったら嫁いだ夫の家風に生きる。
それが、本当の自分の命の生き様だから。
それを生きる時、喜びが最大限に溢れる。
愛する夫の言う事が何より、一番、絶対と思える。
幸せなな妻。
本当の自分の姿を映し出してくれる夫。
その夫の顔だけ見つめて生きる。
異邦人であろうと、この婚姻契約に入れられた人達は、
ユダヤ人にまず初めに与えられた婚姻契約の命を、
同じく生きる様に造られた事、気がつくはずです。
同じ内容の契約の中に生きる。
聖書を書いた記者全員、トラーが永遠であり、不変であり
変わらないと言う前提で書いている事に気がついて読めば
トラーを廃止すると言う教えを元に読んでいる事で、
見えて来ないものが見えて来るの様になります。
3に続く