光のある所に 闇は存在できない 真理の中に 偽りは存在出来ない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を斜め読み所か、”曲がり読み”しなければ、
主の意図通りが見えて来ます。
聖書には読み方があります。 
聖書は絵画的言語で 書かれているから、その絵画的言語の
意味が分ると 分って来るのです。どの言語だとしても。

分りやすいでしょう。絵画的言語。
”光は闇に勝たない”と書かれているでしょう。
これも絵画的言語です。暗闇に光が出現したら
闇は留まれないと 目で見たらすぐ分るでしょう。
薄暗い灯りも在りますけれど。
イエスさまの居られる所には、サタンは存在出来ない。
光のある所に闇は存在出来ない。

イエスさまが 荒野でサタンと対決した時、
トラーの言葉で サタンを退けたでしょう。
”真理の光”のある場所に 嘘は存在出来ないから
退かなくてはならないのです。
光が覆ったら 闇は消える。

だから、私達は常に主の真理だけに留まり
主の真理だけを語らないとならない。混ぜ物=サタンが
利用して 自分の思索の中に気がつかない間に、
紛れ込んで来るからです。

御言葉の光 神御自身の光、特に部屋の天井に付いている
煌煌と照り輝く灯りを付けたら 真っ暗な部屋が 
ぱっと明るく全部見える!

こう言う絵画的言語が 聖書に至る所に書かれています。
そして、その言葉の聖書的内容を把握して行くと
子供でも どんどん 見えて来ます。いや子供の方が
よ~く理解出来ますよ。先入観なしに 教えられた通りを
信じるから。真理をそのまま教えたら人は理解出来る、
見える様に造られているのです。本来の姿で 主の目と同じ
事を見れる。

意味不明な言葉を主が人間に対して書いて、
禅問答のごとく 想像して探り出して理解せよ!なんて言う
お父さんだとしたり、それどんな 親?You nut?と英語では
言いますが変でしょう。

訳分からん事言わないで、分る様に話してよ!と子供なら
言うでしょう。
聖書は人間が理解出来る言葉で アバ父の御口から出る
人間が理解出来る言葉 内容が書かれているのです。

当時のヘブライ人なら すぐ分る内容の言葉で
書いているのです。プラス 肉の目ではなく 主の御目から
見る目があれば 理解出来る。
頭脳=レブ=心と訳されていますが、頭脳です。
私達の体も霊的な存在。考えると言う事を通して
主は、私達を”深い婚姻関係の知り方” テトス1にある様な
”知り方”に導くと書かれています。その”真理の知識”
”主の知り方”の性質は、永遠から与えられていると書かれている。

奥がふか~いのです。
だってずらずらと只書いてある様な創造の7日間の記事の中
最初の冒頭の言葉一つとっても、永遠に繋がる真理が
書かれているのです。その言葉一つの中に凄い世界が
広がっています。言葉=神だと言う事が 本当に分って来ると
主の言われる事を 削除 終った 古いなんて 言う教えが
いかに 人間のデタラメな 妨害の教えと言う事が
分って来ます。


曲がり読みしてはいけないとは、既存の概念=主の意図とは
違う教えのフィルターを通さないで、主の言われる事を
主の意図 真理の中だけに留まり 主の目と同じ目から読む事。

自分の姿を知って行く。”初めに造られた主の意図通りの
主の似姿の本来の自分”を取り戻されている事が、完了の業
福音です。それ以外の福音はないのです。

”そんなにも 早く別の福音に走るのですか?”と
あるのは、結局 肉の目が開かれたままの 主の言葉の
の捉え方が、混ぜ物した教えに変身して行くと言う事。
主の目から見ている事とは、ずれた捉え方。
それが 肉の目にはとても納得行くし、主の言われる世界が
肉の目には信じがたい事だから
そう言う人間の混ぜ物の教えが出て来るのです。

将来ではなく 今。この世の体の中に在りながら
この世の者ではないと イエスさまが言った通りの事を知る
事に目が開かれたら見えて来るのです。

続く