聖書を斜め読み所か、”曲がり読み”しなければ、
主の意図通りが見えて来ます。
聖書には読み方があります。
聖書は絵画的言語で 書かれているから、その絵画的言語の
意味が分ると 分って来るのです。どの言語だとしても。
分りやすいでしょう。絵画的言語。
”光は闇に勝たない”と書かれているでしょう。
これも絵画的言語です。暗闇に光が出現したら
闇は留まれないと 目で見たらすぐ分るでしょう。
薄暗い灯りも在りますけれど。
イエスさまの居られる所には、サタンは存在出来ない。
光のある所に闇は存在出来ない。
イエスさまが 荒野でサタンと対決した時、
トラーの言葉で サタンを退けたでしょう。
”真理の光”のある場所に 嘘は存在出来ないから
退かなくてはならないのです。
光が覆ったら 闇は消える。
だから、私達は常に主の真理だけに留まり
主の真理だけを語らないとならない。混ぜ物=サタンが
利用して 自分の思索の中に気がつかない間に、
紛れ込んで来るからです。
御言葉の光 神御自身の光、特に部屋の天井に付いている
煌煌と照り輝く灯りを付けたら 真っ暗な部屋が
ぱっと明るく全部見える!
こう言う絵画的言語が 聖書に至る所に書かれています。
そして、その言葉の聖書的内容を把握して行くと
子供でも どんどん 見えて来ます。いや子供の方が
よ~く理解出来ますよ。先入観なしに 教えられた通りを
信じるから。真理をそのまま教えたら人は理解出来る、
見える様に造られているのです。本来の姿で 主の目と同じ
事を見れる。
意味不明な言葉を主が人間に対して書いて、
禅問答のごとく 想像して探り出して理解せよ!なんて言う
お父さんだとしたり、それどんな 親?You nut?と英語では
言いますが変でしょう。
訳分からん事言わないで、分る様に話してよ!と子供なら
言うでしょう。
聖書は人間が理解出来る言葉で アバ父の御口から出る
人間が理解出来る言葉 内容が書かれているのです。
当時のヘブライ人なら すぐ分る内容の言葉で
書いているのです。プラス 肉の目ではなく 主の御目から
見る目があれば 理解出来る。
頭脳=レブ=心と訳されていますが、頭脳です。
私達の体も霊的な存在。考えると言う事を通して
主は、私達を”深い婚姻関係の知り方” テトス1にある様な
”知り方”に導くと書かれています。その”真理の知識”
”主の知り方”の性質は、永遠から与えられていると書かれている。
奥がふか~いのです。
だってずらずらと只書いてある様な創造の7日間の記事の中
最初の冒頭の言葉一つとっても、永遠に繋がる真理が
書かれているのです。その言葉一つの中に凄い世界が
広がっています。言葉=神だと言う事が 本当に分って来ると
主の言われる事を 削除 終った 古いなんて 言う教えが
いかに 人間のデタラメな 妨害の教えと言う事が
分って来ます。
曲がり読みしてはいけないとは、既存の概念=主の意図とは
違う教えのフィルターを通さないで、主の言われる事を
主の意図 真理の中だけに留まり 主の目と同じ目から読む事。
自分の姿を知って行く。”初めに造られた主の意図通りの
主の似姿の本来の自分”を取り戻されている事が、完了の業
福音です。それ以外の福音はないのです。
”そんなにも 早く別の福音に走るのですか?”と
あるのは、結局 肉の目が開かれたままの 主の言葉の
の捉え方が、混ぜ物した教えに変身して行くと言う事。
主の目から見ている事とは、ずれた捉え方。
それが 肉の目にはとても納得行くし、主の言われる世界が
肉の目には信じがたい事だから
そう言う人間の混ぜ物の教えが出て来るのです。
将来ではなく 今。この世の体の中に在りながら
この世の者ではないと イエスさまが言った通りの事を知る
事に目が開かれたら見えて来るのです。
続く