今日は シャバット。この”シャバット”の意味を知って行くと
”シャバット” ”主の完了の業”から出発し、それを中心に
一年に渡り主のそれぞれへの レッスン計画が ”定めの時”
中心にちゃんと プランされている事が分ります。
人は 主の完了の業から 生きる様にされているのです。
私達が付け足すものなんて 本当にない。
主が全部100%用意してくださったから。
私達がしなくてはならないのは 主の中に留まる事。
主の声の下にいて 主の声の中にいて 主の声だけを
聞く事。それは 主の意図通り 命の木から食べる事。
それ以外の 食べ物はない。混ぜ物の教えを食べたら
具合悪くなってしまうのです。
主の言葉を聞いた=シャマーしたら、その通りを生きる。
シャマー=聞く 従うと訳されていますが本当は聞く。
聞いたらその通りにするでしょう。だから。
なんと言う損失をして来たのか 今もう、もれなく逃さない様に
拾い集めています。嬉しい 楽しい 喜び溢れるものです。
主は喜び 楽しむ中で 主がどんなに良いお方であるかを
知る様にと 聖書に書かれているでしょう。それが”定めの時”
なのです。
私達が考えている様な これこれ 厳守して 死守してなんて
律法主義的 偶像の神に仕える様な、内側の外側の
婚姻関係の命のない話ではない。
深い~ 親しい究極の関係を味わい楽しむ、他人行儀ではない
内側の婚姻関係の知り方なのです。
主のレッスンプランは、新しい人になっても
以前の死んだ自分の影響のその包皮 レイヤーに ちゃんと
刈り込みをして下さる。
邪魔だから。それがあるから、生き生き生きれない
または自分を 他者を損なうから きちんと 教えて下さる。
何が過去の古い自分の記憶の中から来る影響で 妨げになって
いるのかを 様々な状況 出来事人間関係、職場の中に出来事
あらゆる事を通して、気がつかせて下さる、訓練し
教えて下さっているのか 分って来ます。
でも 主の時の中に参加しない場合は、分らないまま行きます。
主の教え様としている事を、キャッチ出来ないまま
ズレた事していくのです。自分なりの計画ややり方を
やって行くことになる。 何を教えられているのか
気がつかないまま もがく。
私個人で言えば 過ぎ越から 今そして 仮庵に向かう中で
もう すごい レッスン教えられて来てます。
痛いけど でも 本当の自分が出て来る。
包皮が取られたら 本当の自分がどう生きれるか
分って来るから。痛いけどね。時々 レッスンは。
でも 分る。主が何を教えようとしているのか はっきり
分って来る。
主は注意深く ちゃんと必要な事を 置いて訓練して
下さるのです。主のレッスンプランに沿って。
でも 私達の本当の姿は=修復された人です。
修復された人の姿にそぐわない 包皮=過去の記憶の
中にある自分の影響を取り除いて下さるのが
一年に渡る”定めの時”の訓練 教えでもあるのです。
主の息=ルアフ=霊の中 一緒に呼吸して 主の影の中を
主の定めた時の中 主の息に合わせて一緒に動く事が
分らないと 大事なレッスン逃してしまいます。
シャバットは本当に自分と家族のためです。
そう聖書に書いてあります。”あなたの住居に於いて”と
はっきり書かれています。祝福の中心は家族だからです。
主の完了の業を思い出し 自分が誰かを思い出す。
主の王国の王家の一族 一員として 主の御前に 出て
喜び 祝う日です。
厳しい目で にらみ合い 何が出来てないなんて
そんな世界じゃない!さあお互い 楽しもう!
仲直りしよう!本当の姿、関係に戻ろう!主を中心に 笑顔
リラックス 共に主がどんなに良い方であるかを 思い出し
お互いを祝福し合い、そして 主に対しても
祝福を宣べる 祈るのですよ シャバットでは。
家族が 週一度 お互い忙しい中 この日は手を止めて
お互いにちゃんと向き合い 修復しあったら 亀裂や 誤解や
わだかまり溜まり、関係が壊れる事なんて ないのに。
相手の声を 気持ちをゆっくり聞いて上げる 語り合いの
時間をとるために主はこうして ”定めの時”を
設けて下さっているのだと分ります。
出来てるか 出来てないか 見張る 試すためなんて
勘違いしてたら 主の声が聞こえなくなります。
Shabbat Shalom