昨日の続きです。
”信仰により義とされた!”とあの有名な聖句を皆取り出して
多くの人は唱えます。
しかし、本当に その主の宣言を自分も主の宣言通り信じて
いるのでしょうか?
主の言葉 声の様に似ていても ずれていたら ハター。
つまり 的を外して、主の顔に別の顔を置いて 本当の
主の声が見えなくなってしまうから 危ないのです。
ここよ~く 注意して 考えてみるのです。
”義とされた”と言いながらも未だに罪人ですと言う声が主流でしょう。
一体、どう言う意味で主の言われた事を 捉えて 発表して
いるのか、一度 立ち止まり考えてみる必要があるのです。
色々な事を 分けて考えないと、ごちゃごちゃ
混線して来ます。
ズレる事と 本当の自分のIDとは 別と認識すれば
見えて来ます。聖書が何を言っているのか。
結局 こうでした。私の場合。
自分の行動 思索 言動を基準にして見続けて、
だからやっぱり自分はまだ罪人だ~と言い続けて来た。
しかしこれ 非聖書的な発言です。
本当の自分に出会えなかった時は 完了の業で本当の姿の
自分が取り戻されているなんて 思いにも上らなかった。
実は”本来の自分が取り戻されて、主の中に戻されている”
それが完了の業の極意なのに。
そして、私はイエスさまそっくりの姿にされた人だなどと
言えば、とたんに ブーイング 非難囂々。
横柄な人だとか、謙遜じゃないと普通は思うでしょう。
でもそうでしょうか?
横柄な 不謙遜な 謙りない人とか。
では、一体”信仰義人”と言うのは何なの?
罪告白した瞬間だけ 義人なの?そしてまた次には罪人に
戻るの?変でしょう。その教え。 聖書でも何でもない教え。
違うでしょう。義人=修復された人になっている。
もう 信じにくい事を 主は宣言されているから
見えないだけなのです。
それらしく 生きれないのは、本当の自分に出会って
無い=罪人だと思い込んでいるから。プラス
気がついて知った人でも、完了の業でフルパッケージ搭載の
本当の自分の姿を再所有して生きる旅路の途上の
さなかだから いつもそう思索 行動する事が 分らないの
でしょう?違いが分りますか?これ よ~く分解しないと
混線 混同して来ます。
でも、私達は神の似姿に造られたのですよね?
完了の業とはそれを取り戻して下さった事ですよね?
信じている事と発言している事に すごい ズレがあるのに
気がつきませんか?言っている事とやっている事と
信じている事が バラバラ。
では私達は一体誰ですか?私たちの本当の姿は何ですか?
主に造られた通りのそれぞれ=トーヴ 主の意図通りの
主の似姿に似せて造られたものです。
それ以上でも それ以下でもない。主の意図通りの姿=
主の似姿の自分が取り戻されている。
それは 誰も誇る事の出来ない領域。なぜなら
その姿は主から100%只で与えられただけだからです。
誰も自分の中から 持ち出して 自分を造り出した人なんて
1人もいないのです。
続く