主の言われた事だけを土台に 信じる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昨日の続きです。

”信仰により義とされた!”とあの有名な聖句を皆取り出して
多くの人は唱えます。
しかし、本当に その主の宣言を自分も主の宣言通り信じて
いるのでしょうか?
主の言葉 声の様に似ていても ずれていたら ハター。
つまり 的を外して、主の顔に別の顔を置いて 本当の
主の声が見えなくなってしまうから 危ないのです。
ここよ~く 注意して 考えてみるのです。

”義とされた”と言いながらも未だに罪人ですと言う声が主流でしょう。
一体、どう言う意味で主の言われた事を 捉えて 発表して
いるのか、一度 立ち止まり考えてみる必要があるのです。
色々な事を 分けて考えないと、ごちゃごちゃ 
混線して来ます。

ズレる事と 本当の自分のIDとは 別と認識すれば
見えて来ます。聖書が何を言っているのか。


結局 こうでした。私の場合。
自分の行動 思索 言動を基準にして見続けて、 
だからやっぱり自分はまだ罪人だ~と言い続けて来た。
しかしこれ 非聖書的な発言です。
本当の自分に出会えなかった時は 完了の業で本当の姿の
自分が取り戻されているなんて 思いにも上らなかった。
実は”本来の自分が取り戻されて、主の中に戻されている”
それが完了の業の極意なのに。

そして、私はイエスさまそっくりの姿にされた人だなどと
言えば、とたんに ブーイング 非難囂々。
横柄な人だとか、謙遜じゃないと普通は思うでしょう。
でもそうでしょうか?
横柄な 不謙遜な 謙りない人とか。

では、一体”信仰義人”と言うのは何なの?
罪告白した瞬間だけ 義人なの?そしてまた次には罪人に
戻るの?変でしょう。その教え。 聖書でも何でもない教え。
違うでしょう。義人=修復された人になっている。
もう 信じにくい事を 主は宣言されているから
見えないだけなのです。

それらしく 生きれないのは、本当の自分に出会って
無い=罪人だと思い込んでいるから。プラス
気がついて知った人でも、完了の業でフルパッケージ搭載の
本当の自分の姿を再所有して生きる旅路の途上の
さなかだから いつもそう思索 行動する事が 分らないの
でしょう?違いが分りますか?これ よ~く分解しないと
混線 混同して来ます。

でも、私達は神の似姿に造られたのですよね?
完了の業とはそれを取り戻して下さった事ですよね?

信じている事と発言している事に すごい ズレがあるのに
気がつきませんか?言っている事とやっている事と
信じている事が バラバラ。

では私達は一体誰ですか?私たちの本当の姿は何ですか?
主に造られた通りのそれぞれ=トーヴ 主の意図通りの
主の似姿に似せて造られたものです。
それ以上でも それ以下でもない。主の意図通りの姿=
主の似姿の自分が取り戻されている。

それは 誰も誇る事の出来ない領域。なぜなら
その姿は主から100%只で与えられただけだからです。

誰も自分の中から 持ち出して 自分を造り出した人なんて
1人もいないのです。

続く