私達は、オラー=立ち上る 生けるコバーンとして、
神の中=天の領域、元居た状態=エデン=喜びの中に
住まうようにされている事を、教えられているのです。
私達は本来、神御自身の中=エデン=喜び以外に
存在するようには、造られていないからです。
どの位の近さで、神に引き寄せられているのでしょうか?
幕屋、至聖所? いいえ、もっともっと、近くです。
雲! 煙 神の栄光のただ中=エデン=喜びだけが
溢れるただ中、神の中!、天の現実の中に、修復されてる、存在して居る事を、教えているのです。
私達の姿 神の中にある 私達の現実を教えているのです。
カポーレット=契約の箱のふた=神の臨在が宿る場所、
神の御座 神の栄光の中に、引き寄せられているのです。
詩編 1章
1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
2 まことに、その人は主のおしえ=主のトラーを喜びとし、
昼も夜もその教えを口ずさむ。
”主の教え”=トラー、トラーの教えの中で
喜び溢れて、そして、一日中、トラーを思いめぐらし、
神の真理の中で、考え続ける人と言う意味です。
人間の神学は、トラーは律法で、終った!忘れよと教えますね。
ここを、取り違えては、ならないのです。
神の言葉は、永遠不変!
一点一画も廃れず、変わらず、変更、削除もないと
神御自身が、宣言されているのです。
この真実を、変えてしまえば、神の真理、言葉が、様々に
覆い隠されて、見えない部分が沢山出て来てしまいます。
神の真理の枠から飛び出ては、真実は、探せない、
見つからないのです。
部分的、しかも、何が、本当で、何が人の教えと
混ぜられていて、なにが、聖書に書かれているのか、
いないのかさえも、見分けられなくなって行きます。
イエスさまも、言われました。
マタイ5:17
わたしが来たのは、トラー
(律法と誤訳されている)や預言者=ナビームを
廃棄するためだと、思ってはなりません。
廃棄=間違って理解するためにではなく、
成就=正しく理解し、それを、生きれるように、
するために来たのです。
と、言っています。
神学の主張する所と、イエス、神御自身の言われる事が
全く相反しています。
大事な部分が、特にそうです。
もちろん、主の言葉が しかり!なのです。
人間の教えが、ただの作り話、すたれてしまう、枯れてしまう、
崩れてしまうものなのです。
神の言葉は、神が変わらないように、
永遠に変わらないのです。
時と、場合により、変わると思っている、その神学意識、
ヘレニズム思考、反聖書的思索を,一切全て排除、
捨てるのです。
人間の教えに照らし合わせて、トラーの教えを、律法だ、
終ったもの、窮屈、聖霊時代は違うのだと、
聖書的ではないと言う教えの方が、ズレています。
何もかも、永遠から永遠に、神の原理、法則 言葉 取り扱い
救いも、購いも、神の働きも、神ご自身も変わってないのです。
反聖書的教えを、捨てる、切り替える作業が、必要なのです。
だから、パウロが”心の一新により 変えなさい。”と
訴えているのです。
これは、新しい人になっている、その思索で考える。
良い地=エデン 新しい人の思索で、耕すのです。
神の目から見る捉え方に、切り替えなければならないと、
言っている通りです。
神のトラーを口ずさみ、それを喜ぶ人は、それに生きる人は、
その結果、
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
と書かれています。
詩編全体を見て行くと、分ります。
詩編は、イスラエルの賛美の書なのです。
賛美=神の言葉=トラーの言葉なのです。
そして、賛美の多くは、このコバーンの儀式、礼拝を
通して生まれている歌なのです。
何故なら、新しくされた人の、心からの喜び!賛美だからです。
オラーのコバーン=神の中に立ち上る、引き寄せられている
新しい人の現実、それを、認識、体験した結果の
心からの喜び、賛美なのです。
神の御座=臨在=修復=カポーレットの意味、現実を
体験した人の歌なのです。
引き続き 詩編36:5~
主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは
雲にまで及ぶ。
あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは
大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣(低きも高きも
全ての創造物)とを救われる。
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
ここで書かれている、いつくしみ、恵みと訳されている
へセット=永遠に無限に、限りなく、エンドレスに
与えづけられるもの、受けるに値しない、
何もしていないのに、ただただ 与えられる、
受けるものと言う意味です。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。
ゆたか=脂肪=コバーンの動物の脂肪です。
甘い香り、一番美味しい所です。
あなたはその楽しみ,喜び=エデンの川の水を彼らに飲ませられる。
(エデンの生ける水が書かれているのです!)
イエスさまが、この水を飲む者は、渇かないと言われた
喜び=エデンの生ける水です。
アダムとエバが、エデンを追い出された時も、イエスさま
御自身、命の生ける川の水が、世界に四隅まで、共に
ついて来ましたね。
神は永遠から永遠まで、変わらないのです。
どの名で呼ばれようと、どんな形で現れようと、神御自身は、
エハッド=一つ以上で まったく一つの神なのです。
いのちの泉=エデンの生ける水は、あなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。
礼拝者は知っているのです。
どこの場所で、宴会、フィースト、晩餐があるのか!
食べて飲んで、その祝宴を享受している様子が
書かれているのです。
”あたなの家”=エルサレムの神の家、荒野では、幕屋です。
天と地が繋がる場所!
神の家、天の御国、御座の前で、喜びの宴会!
あたなの家の豊かさ=バンクエット、宴会!フィースト!
コバーンの儀式の後、皆全てが、この焼かれた
BBQを食べるのです。
神御自身、祭司達、そして、そこに集う民の全ての人が、
それぞれに、食べるのです!
なぜなら、神の家の、祝宴、宴会だからです。
その祝宴の話をしているのです!
詩編の中の、神の家の宴会とは、この神殿での儀式の後の
祝宴、フィーストなのです。
神の家の、祝宴の事を話しているのです。
何を祝っているのですか?
今既に、修復された姿を、祝い、その新しい人の
喜びの歌が、詩編には、書かれているのです。
食事は、祝宴は、ヘブライ人の世界では、親密さ、
親しさの現れ、印です。親しくない人達と、
食事は共にしないのです。
祝い事、契約を交わした後には、宴会が、つきものなのです。
そして、最初のオラーのコバーンは 神御自身だけが
食べるのです。
私達を、そのまま、丸ごと、新しい人として、受け入れ
神御自身が、私達を楽しんでいる!文字通り、食べると言う
言葉で書かれているのです。
私達を食べている!味わっている!喜んでいる!楽しんでいる!
詩編の賛美は、これを知った、礼拝者の証なのです。
神の中に、修復した姿で、入れられた結果を、
その溢れる感動、喜び、祝い、歌っているのです。
ゼパニア 3:17
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛=アハバ=契約の愛 トラーの愛によって
安らぎを与える。主は高らかに歌って
あなたのことを喜ばれる。(新改訳)
あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、
勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、
その愛によってあなたを新にし、祭の日のように
あなたのために喜び呼ばわられる」(口語訳)