神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得
”御翼の影”とあります。
どういう意味なのでしょうか?
他にも、聖書で”翼”と言う,メタフォー、
比喩が書かれていますが、ここに書かれている、神の翼とは、
神の家の翼です。
神の家の翼とは、どこですか?

そうです。この神の臨在がある、契約の箱、チェラビムの
翼の事を話しているのです。
至聖所、契約の箱を覆っている、この”翼”です。
神は、どのように 神の現実、神の子の現実=新しい人を
教えてるのでしょうか?
御翼の影=実態の中に、私達をすっぽり入れている!
神が、私達を、御自身の中に、丸ごと、
引き寄せているのです。
この”カポーレット”の上でです。
完了の業=修復された姿で、受け入れられていると
言う意味なのです。
購いは、”神の側で100%完了!成し遂げられている”
私達が、どんなことをしたからとか、捧げものしたから
聖くなったと言う、購いではないのです。
捧げものを、携えて行く行為も、確認!です。
認識させるための、ものなのです。
しかも、祭司達は、捧げものをする前に白い衣を
既に、着ている事!これも意味があるのです。
既に、聖なる者とされている印です。
全部、教え、神の真理は、一貫して、
変わらないのです。
神の家での、捧げものは、罪の仮の許しのための、
免罪符ではないのです。
不完全な罪人のままでは、無いのです。
御翼=契約の中に、守り、保って下さっているのです。
この”翼”の下、神の臨在、
神の栄光の影=実態の中に、契約を通して関わる、
究極の親しさに、今入れられているのですと、聖書では、
教えているのです。
この幕屋では、レビの祭司達、アロンの家系の大祭司により、
事細かく、私達の姿が、もう修復され、神の中に
引き寄せられているその現実を、幕屋のコバーンの儀式の中で、
教え続けているのです。
神の家の祭司の役割は、”修復された姿”
神の中=エデン=喜び
人が有るべき場所、状態に戻っている事を、教える事が
祭司達の役割なのです。
私達は、メルキゼデクに属する天の祭司です。
”許され続ける罪人”の教えを、教えていては、神の意図した事と
全く異なる教えを、し続けてしまうのです。
ヨハネ 17章
イエスさまの祈りを思い出して下さい。
16節わたしが世のものでないように、
彼らも世のものではありません。
この世の肉体の中にありながら、既に、修復された人として、
天の現実=神の中=エデンの中にいる
私達の事実を話されているのです。
21父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、
みんなの者が一つとなるためであります。
すなわち、彼らをも、わたしたちの内に、おらせるためであり、
それによって、あなたが、わたしをお遣わしになったことを、
世が信じるようになるためであります。
私達が、父が子に、子が父の中に、一体で居るように、
私達も、神の中におり、神も私達の中にいる事、
神の中=天の現実に居る事を、知る、信じる様にと
祈っているのです。
何故ですか?
その事実を、把握していない、知らないからですね。
父と子がひとつであるように、私達も神と一つ
天の現実の中、神の御座の前に、新しい人として、
今!居るのです。感じなくても。
神の栄光の中 御翼の影に 神と一つにされている事を、
思い出す為に、この目で見える現実を通して、
新しい人の命で、人生を歩める事を、教えているのです。
地上にありながら、天の現実にいる、そして
神の御翼の、栄光の下にすっぽり入れられている。
それは、私達がそのように 造られている存在である事。
だから コバーンの儀式を通して 喜び踊る!
罪だけ許されて、仮免のごとく、天に行くまでは、古い人の姿。
許され続ける罪人の教えは、聖書の教えではないのです。
そんな教えは、人の心に罪悪感と、陰りと、
条件付きの救いの教えを唱えさせられる、
中途半端な救いは、イスラエルの神の教えではない、
別の宗教の教えなのです。
信じがたきを信じるが 命の木から食べる人の信仰です。
神の目から、その通りを、信じがたくても、信仰により
受け取るのです。
私達は、アダムとエバが、神の目からではない、
別の領域から見る目が、開かれて、エデンの園の外の圏外に,
出てしまった結果を受けていました。
古い人で、生きる、学習する、エデン=喜び=神の中ではない
外で生きる生き方です。
今まで、そっくりそのまま、神と全く同じ様に、見て、考える
知る事から、今度は、膜の掛かかったように、神の言葉も、
声も、見ることも、ぼやけて、プリズムを通して曲がるように、
見えてしまう。裏の世界、別の領域から物事を見る事を、
知ってしまったのです。
だから、神の世界の領域が、分らない。
しかし、神の目から、神の言う通り!!!!
感じなくても、信じがたくても、その通りを、受け取る、
信じ、考え続ければ、神の見ている通りを、主の真理を
そのまま、同じ様に見える事に、なるのです。
この”修復された人”も、一番の課題です。
神の目から修復されている!と、言われるのです。
私達は、誰の声を、聞くのですか?
どの目から、物事を見るのでしょうか?
神の領域、神の目から?それとも、この世の教え、肉的、
古い人の意識から、物事を眺めるのでしょうか?
この世の目から、神の真理に属さない、人造神学を通して、
物事を眺め続けていては、見えない、神の領域、現実なのです。
不思議~ 今!もう既に新しい人として 修復されている事!
それを、聖書の初めから、終わりまで、話している、教えて
いるのです。
何故なら、トラー、聖書全体は、新しくされた人に与えられた
新しい人の姿、神の子の本来の姿、命の木の実、天から降る
マナだからです。
多くの人は、許され続ける不完全な罪人として、
聖書を読むから、見えない、疲れる、苦しくなるのです。
”ああ~わたしってまだ 足りない!出来ない!”と言う
ジレンマに陥るのです。
聖霊に助けられていながら、この程度?の、振り出しに戻るの
繰り返しになるのです。
だから、エジプトに居た、奴隷状態意識の時ではなく、
救い出された後、新しい人になった!その後に、
シナイ山で、初めて契約が渡されたのです。
罪人意識では、まだエジプト=苦しい、狭い、悲しい、束縛
の中にいるのと同じです。
私達は、その姿を脱出して、新しい人にされた事、
感じなくても、信じ続けるのです。
神の言われる通りを、神の目から、見て、信じるのです。
詩編は、新しくされた人の心からの、喜びの歌なのです。
神の中に、修復された人の現実を、
祭壇=神の家のテーブル=究極に親しい間柄で、共に喜び
分かち合い、食事をする、その祭壇の前で、
目の当たりにさせられ、新しい人にされている事実を、
思い出し、認識、確認して、喜び踊っている歌なのです。
出エジプト 19にある通り、
神のトラー!契約により、神の怒りではなく、
神の花嫁として、神の至聖所 神の家に共に住まう
人達として 呼び出された事を知っていたのです。
これは トラーの道を歩む喜び 喜びに導く
神のトラーの教え、朝に夕に
絶えず=コバーンの焼き尽くす神の下された火が
絶えないことなのです。
たった一つ!神の真理だけが、私達の存在、姿、私達が
誰であるかを、明らかにして下さるのです。
人の教えは、私達の本当の姿を、明らかに出来ません。
北=隠されていた、私達の本当の姿を、
神がこの儀式を通して、私達に、教えている、
見せて下さっているのです。
私達のDNAには、神のトラーが書かれているのです。
申命記30に、書かれています。
お腹の中に書かれた、神の言葉と書いてあります。
そして、私達は、神の姿に似せて造られた存在なのです。
そして、私達は、神のトラー=言葉=神の実態で、
造られたと書いてあります。
だから、神の本当の言葉を、聞けば、反応出来る!
隠されていたもの、渇いた土の中に埋まっていた種が、
生ける水を、吸い取ったら、芽が出てくるように、
わたしたちも、神のトラー=本当の声=生ける水を
受けたら、芽吹くのです。
私達の本当の姿=修復された新しい人が、生き生きと
耀き出て来るのです。
続く
今日は、永遠からの完了の業を、修復された人を
思い出し、祝う日です!
Shabbat Shalom