いのちの値段 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

詩編49

神の家でされる、コバーンの儀式を通して、
福音の中心である、完了の業、永遠からの購い救い
神の側で100%一方的に,提供された贈り物を
教えています。

この詩編49章も、コバーンを通して、永遠からの、
完了の業を知った、体験した、新しい人にされた、礼拝者が、
歌っている歌です。

1-4節
もろもろの民よ、これを聞け、すべて世に住む者よ、
耳を傾けよ。

低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。

わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。

わたしは耳をたとえに傾け、琴を鳴らして、
わたしのなぞを解き明かそう。

1節もろもろの民=全国民、世界の果てまで、神に造られた
全ての人へ
、漏れなく宣言しているのです。

そして、世界には2種類の人がいる事。
神に信頼して、生きるか、そうではないか。
それが、書かれています。


7 節 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価を神に払うことはできない。

8節 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために
そのいのちを、あがなうには、あまりに価高くて、
それを満足に払うことが、できないからである。

西洋神学で教えられて来た、聖書とは違う意識、教え
概念、先入観を一切排除、リセットして神の御言葉を
読んで見ると、真実が、浮き彫りになって来ます。

私達は、こんな様に教えられて来ました。
旧約時代は、動物の血で一時的に罪を購い、
十字架以降は、完了の業で、罪の許しは、終わり
だから、旧約時代の教えも終ったのですと。
だから、面倒くさい、神殿での儀式は、帳消し!
そう教えられて来ましたが、事実は、
神殿は、今ないから、儀式もないだけです。

もし、神殿が有るとしたら、今も変わらずにコバーンの
儀式が続けられているのです。
そして、その儀式の意味は、罪の許しでは、ないからです。

イエスさまの昇天後、弟子やパウロが、イスラエル民が
変わらずにしていた様に、ずっと神殿でのコバーンの儀式が
捧げれ続けていたのです。

そして、再びイエスさまが、地上に来られたら、また神殿で
コバーンが捧げられると、エゼキエル書に書いてあります。
罪の仮の許しのために、神殿でこの儀式が行われていたと
言う教えは、つじつまが、合わないのです。

しかも、イエスさまの血以外、罪の許し、購いの代替えなど
何処見渡してもないと,はっきり、くっきり、明確に
書いてあるのではないでしょうか?

西洋宗教、神学は、2世紀に、ヘブライ人を全部追放して
異邦人だけが寄り集まり、勝手に、造ってしまった
教えなのです。
しかも、聖書を改ざんして、そぎ落としたら
その中に書いてある、神の真実など、そげ落ちて、
欠けてしまった事実、トラーにある、福音の中核、購われた人の
生きる姿、契約の愛の姿、神御自身の姿、その真相がたくさん 
分らないまま、覆い隠されてしまったではないですか?
だから、世の中は、宗教の教えで、迷い出て
不必要な教え、行事に縛られて、苦しんでいる人が
大勢居るのでは無いのでしょうか?

トラーを知る事が、神の真実、真理、御顔、実態にたどり着く
最大の鍵なのです。

これを、理解した上で、新約と呼ばれる箇所を
読まなければ、意味不明になってしまうのです。
なぜなら、聖書全部はトラーの内容が
書かれているからです。

この7節の中で使われている言葉に、注目です。
ヘブライ人への手紙10:4の中にもあるように、”動物の血は
罪を消す事が出来ない”
とはっきり書いてあります。
そして、ここにも、人が人を、購う代価をどんな事をしても
払う事が出来ないと書いてあります。

その通りです。
どれほど、金塊を積んでも、お金を積んでも、不可能なのです。
仮免、仮の許し、代替えの一時しのぎの罪の許し
などないのです。


では、7節にある、ヘブライ原語で書かれている、
ヘブライ人が認識、理解している内容は、
一体、何なのでしょう?

まず、購いと訳されている言葉です。

ピデイヨン”
 =購い、と訳されている言葉は、
奴隷を買い戻す アクション、その行為の事です。
動詞です。
支払いをする、その行為の事を、言っているのです。
私達は、自分が何かして得る、罪の許し、生け贄ささげて
得られる許し、購いをする行為だと思っています。
奴隷を、その所有者=サタンから、神の手に買い戻す
行為の事です。
それは、私達の支配者になる存在でなければ、なし得ない事、
奴隷は自分の身代金を、払う事が出来ないからです。
神御自身しか、出来ない事なのです。

そして、こう書いてあります。
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価を神に払うことはできない。
この命の価==コフェル=キプールです。
同じ、ルート ワードなのです。
値札!名詞です。値段が書いてある値札です。
キプール=カポーレット
全部同じ意味で、繋がっている、言葉です。
この命の値段 プライスは、いくらなのか?と言う事です。

購いと訳されている言葉は、支配者から、奴隷を買い戻す
行為、そして、命の価=名詞で、買い戻した
値段の値札です。
これが、大贖罪のキプールと同じ言葉なのです。
ヨンキプールと、オラーのコバーンの共通点は
後で、書きたいと思います。

値札、値段とは、一体何なのか?
私達が、引き寄せられて、このキプール=無限の価値
に値する、私達の存在、命の価値!!!!を、
オラー=立ち上る、上昇する、 コバーン=引き寄せる
の儀式を通して、神が教えているのです。

オラーのコバーンは、祭壇の上で 朝に夕に絶えず
神の火に、焼かれ続けているものなのです。
個人で、いつでも、オラーの捧げものを持って来る事が出来る、
また祭司は、朝に夕に、その祭壇に、オラーのコバーンを
捧げ、この火に、絶え間なく 四六時中、途絶える事なく
焼べ続けているのです。
つまり、朝に夕に、教えているのです。
何が大事なの?私達は、何を、神に考えさせられているのか?
朝に夕にと有りますね!
四六時中、私達の原点=新しい人!修復の姿、完了の業を
主の慈しみ、恵み、契約の愛を、これを通して思い出せ!
新しい人で、既に神の中=天の現実=エデンに存在している事!
朝に夕に、絶えず思い出せ!なのです。
その命の価値を、思い出せ!なのです。

続く

Shabbat Shalom