聖書の言葉、トラー=イエスさまご自身を読んでいると
そのままの意味を知ると、感動と、そしてわたしの本来の
姿を生き生き生かす、溢れさせる、躍動させる、
生ける水=神ご自身=聖霊、緑の健康な青草、天からのマナ
を食べている、心地よさを感じます。
人は、神の口から出る、混じりけの無い、一つ一つの
言葉=マナ=トラーにより、生きる様に造られているのです。
私が、本来の自分として、生きる為の
神が与えて下さった、命の木の実を、命の木から
そのまま食べるのです。
人の教えの、添加物ゼロで。
神はどの様に、わたしたちが、誰か=修復された元の姿の
神の子である事を教えたのでしょうか?
シャドーコピー 影と訳されていますが、影と聞くと
劣った物、本物が来るまでの仮の物と言う印象が
有りますが、聖書で語っている意味は、違います。
影=実質そのものです。
天に有るものの、地に反映されるものです。
大祭司メルキゼデクに繋がる者として、生きるのです。
この、目には見えない天の至聖所の、そっくりそのままを、
地上の影の中で、肉眼に見える、天の現実を通して、
自分の本当の姿を、教えられるのです。
人手によらない、神ご自身が下した火により、
私達自身全存在が、神の火により、嘗め尽くされ、飲み尽くされ
聖なる者とされ、天の現実に今受け入れられているのです。
自分の源、私達の存在の源=天の神の元に今
引き寄せられている事を、教えているのです。
肉眼で見えない、天の現実、自分の現実が神の中に
引き入れられている事を、目で確認する。
天の領域=エデン 喜び=私達の源、存在の根源
そのただ中に入れられている事を、
煙が天に立ち上る様子を見て、それを確認させられて
居るのです。
聞く、見る、感じる、目で見えない世界を、別の事を通して
感じる事を考えてみて下さい。
霊の世界と、肉体の世界を、切り離されていないものとして
考えるのです。
霊=ルアフ=風、息と書かれています。
ヘブライの世界では、存在は一つのものとして、書かれています。
霊と、魂、体と別々に考える思想は、ヘレニズム思想が
入って来たため、ギリシャ語翻訳にも、別々の事として
書かれてしまっていますが、ヘブライ語では、一つの
コンセプトなのです。
肉の中に、神の霊=息が吹き入れられたのです。
人間の全存在は、神の息吹=神ご自身=ルアフで満ち満ちて
溢れて生きる様に、されているのです。
体の60%は水で出来ていて、しかも、血液を通して
酸素=息が全身に巡る!
考えると、神の真理、原則は一貫している事が
分ります。
神ご自身=ルアフが、私達の命、生きるを、
支えているのです。
この息が取られたら、人はこの地上を去るように。
風、息は、見えないけれど、木が揺れて踊る様子で、
目で見る事が出来ますね。
霊の世界とは、肉眼で見えない世界を、
目で見るのです。
そして、香りや、光など、音、言葉、重力などなど
それらの、目に見えないけれど、実態のある、現実私達は、
目で見えない世界を、神は、学習させているのです。
光でさえ、90%のスペクトラムしか、私達は
認識していないのです。
肉眼で見えないからです。
そして、見るとは、二つあります。
神の目から見る=命の木から食べる食べ方、
もう一つは、神の目からではない、別の領域から
眺めて、事実が見えなくなる、知識の木から食べる食べ方。
ここで目が開かれると言う意味を、ちょっと考えてみたいと
思います。
エリシャが、アラムと戦っている時、敵に囲まれる場面です。
列王記2 6:16
16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、
彼らとともにいる者より多いのだから」と言った。
17 そして、エリシャは祈って主に願った。
「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、
火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
ここで、目が開かれてとある言葉は、”ピケア”です。
神が見ているその通りを、神の目から見る様に、
目が開かれる事です。
天の現実、神の現実をここで、見せられたのですね。
そこに既に居た、有ったのです!
天の中に居るのです。
でも、私達は、肉眼で見えないから、感じないし、
無いと思っているだけです。
つまり、私達は天の領域に今いても、感じないし、
見えないのです。
でも、ロバでさえ、神の現実、天の領域を
見せられるのですから、私達は、目で見えなくても、
神の言葉通り、私達の本当の姿、そして、感じなくても、
見えなくても、今神の中、天の現実の
中に入れられている事を信じるのです。
”見ずに信じる者は幸い”とイエスさまが言われた通りです。
そして、もうひとつ、神の目から見ない、その領域以外で見る
その物事の見方に、目が開かれたアダムとエバ。
エデンの園以外で、見る目が開かれてしまった、それも
同じ”ピケア”と書かれているのです。
私達は、神の真理の中に属さない、人造神学を通して
聖書を、物事を見続けるとは、神の領域、神の目を通して
見ない、別の見方をし続けてしまう事になるのです。
さて、本題に戻りますが、オラーのコバーン
(立ち上がる=引き寄せられる)
全焼の生け贄と訳されている、一番最初に出て来る
捧げものです。
捧げられる動物は、染みも、傷も、異常も
奇形や変形がない、完全無欠な姿の動物です。
そして、その動物を表すのに、”タミーン”と言う言葉が
使われています。
この”タミーン”と言う言葉は、聖書の初めに出て来たのは、
人を指して使われている言葉です。
アブラハムや、ノアに対して遣われています。
彼らの歩み,実質、姿が、”タミーン” 傷も欠陥も、非も無いと
言う意味で使われています。
染みも、傷も、咎も、汚れも無い動物の姿。
これを、ただイエスさまの姿と教えられていますが、同時に
私達神に造られた元の姿、修復された姿の私達を
表してわしているものなのです。
そして、動物の頭の上に手を置くと、あります。
この様子を想像して見て下さい。
”サマー”= 自分の体の全体重を、
この動物の上に置くと、訳されている言葉です。
自分の体重を,動物の上に移行、のせるとは、どう言う
意味があるのでしょうか?
パウロが、よく手を置いて=按手と書いてある、あの事にも
繋がることです。
動物の上に自分の体重をかける=同化 IDです。
自分と同一化する事です。
わたしと言う存在=染みも咎も、汚れもない、完全無欠の
TOV 神に造られた姿である事を、肉眼で、コバーンの
動物を通して見させられるのです。
そして、頭と訳されている言葉は、”ローシュ”=源です。
自分の姿の源=神の造られた、完全無欠の姿、その源と
同化するのです。
染みも、傷も無い姿に、同化されている事を、
教えているのです。
許され続ける欠けのある、不完全な罪人の姿を教える
人造神学と、トラー=聖書に書かれている教えは、
全く相反しています。
将来の話をしているのでもない、今既に新しい人、神の中に
入っていることを、教えているのです。
なぜなら、完了の業は既に、永遠から用意されており、
どの時点でも有効な救い、購いだからです。
もちろん、神の言葉が真実なのです。
その上に、自分の全体中=存在を、同化して、認識するために
動物の頭の上に、手を置くのです。
そして、その動物の頭の上に手を置く!
そうすると、どう言う事が起こるか。
動物の油が手に染み込んで落ちない、匂いもずっとする。
洗っても洗っても落ちにくい。
手の匂いを嗅ぐたびに、ずっと思い出す。
自分が誰であるか=神の目に染みも、傷も咎も、非もない
完全無欠の姿と言う、その実体験です。
匂いがこびりついたまま、思い出し続けるのです。
すごい、学習ツールです。
ここで、この動物を通して、自分が染みも咎も欠陥も
非も、神の前に無いのだと言う事を、教えられるのです。
続く