私達は、神殿での、生け贄、捧げものと聞くと、
即座に、罪に関する教えだと思います。
条件反射的に、”生け贄”=”罪の許し”と出て来ます。
レビ記で書かれている、捧げもの
全てが罪に関してとだと、思っています。
しかし、罪と言う言葉は、レビ記4章まで出て来ません。
しかも、5つの捧げもののうち、4つまでは、
罪とは、全然関係の無い、捧げもの=コバーンです。
生け贄と言うと、いかにも私達が犠牲を払い、大事なものを、
手放し、失い、捧げると言う意識に、なりませんか?
でも、”生け贄”とか、”捧げもの”と訳されている、
ヘブライ語で書かれている、本当の言葉の意味は
”コバーン”=引き寄せるです。
そして、それは、失うではなく、”得る”事なのです。
何かを捧げる、失う場合は、ヘブル語では、別の言葉で
書かれているのです。
聖書の中で、神の家、幕屋、神殿で捧げられる
”生け贄”と訳されている言葉は、
全て、”引き寄せる”=コバーン
と言う言葉で書かれているのです。
犠牲を払う、失う、自分の好きな物を手放す、捨てると
言うような意味では、ないのです。
その時点で、印象も意味も全然違いますね。
山田太郎さんと言う人なのに、川野祥子さんと
別の名前で、呼び続けているような事と同じです。
性別も、人格も違うものです。
違う印象を、刷り込まれ続ければ、それは事実でなくても
自分の中で、現実になってしまうのです。
福音の中心は、シャバット、完了の業から生きる、
新しい修復された人になった事実から、生きるなのです。
許され続ける罪人として、生きるなんて、
聖書に書かれていないのです。
失われていた古い人から、新しい人へ引き寄せられている事、
既に、元の姿に修復されている事を祭壇の前=神の御座の前で、
認識させているのです。
この儀式の意図は、自分の本当の姿に引き寄せられる。
つまり、新しい修復された元の自分の姿に
引き寄せる、肉眼で、また、五感を通して、
感じ、見せて学習させているのです。
私達が既に新しい人になっている現実を、見せるために、
教えるために、神殿の中の儀式を通して、教えているのです。
その神の意図とはズレた意識=古い人、奴隷だった人の意識を、
”あなたの今現在の本当の姿は新しい人である。”その事に、
引き寄せる=コバーンの儀式なのです。
私達は、生ける生け贄と言う言葉=新しい人の姿だと
聖書に書いてあるのです。
ここの部分で、既に、西洋神学が唱える所の
”許され続ける罪人”と言う教えが、反聖書的であるのが
はっきり分ります。
西洋神学は、将来の話、天国に行ってから、
新しい人になると教え続けています。
神の言葉とは、似て非なる異物の教えです。
罪だけは、帳消しになっていると、教えます。
しかし、聖書は、人の教えとは、逆です。
今この時!既に天の御座!と天が繋がる、神の臨在、
天の領域の中の話を教えています。
ですから、罪を見続け、言及し続ける事が、良いと教える教えは
まさに、反聖書的なのです。
それは、罪悪感と、また、自分の本当の姿=新しい人で
生きる事を阻む大障害物でもあるのです。
サタンは、本当に初めの初めから、神の言葉を曲げる事を
続けている事に、気がつけば簡単に謎が解けます。
エデンの園で、アダムとエバが何を、騙されたのか!
同じです。
”神の様に造られている”その姿と、”神の言葉を曲げる”
私達も新しい人に修復されている事を、へびにひた隠しに
されているでは、ありませんか。
しかし聖書では、私達が既に新しい人になっている現実を、
見せるために、神が神殿、神の家の儀式を通して、
神の家の子達の本当の姿、修復されている事を
教えているのです。
新しい人は今!既に!修復された姿にされている事を
語り続けているのに、神学メガネと、覆いをかけられて、
見えなくさせられているのです。
神の言葉は、ぶれない、一貫しています。
人間の教えは、逆をしているのです。
神が引き寄せると言う行為をしている所を、
犠牲を払い、古い人の方を見る様に引き離して
いるではありませんか?。
逆行するから、痛いのです。合わぬくびきを、負わせられて
擦れて痛いのです。違和感だらけです。
最後の捧げものは、罪に関して書かれている様に見えますが、
そうではないのです。
最後の一つが、購いに関して書かれているように見えますが、
その最後も前の一つと繋がり、意味合いが違うものなのです。
その2つのコバーンは、コインの両面性があるのです。
これは、最後の方で、解説したいと思います。
祭壇の前、全宇宙の王の王、主の主、神の御座の前に
立たせれる=新しく修復された人の姿で、立たされるのです。
だから、祭壇の前に、コバーンを持って来なくては
ならないのです。どこでも良いのではないのです!
命を造られた、その神の祭壇、神の御前以外で、コバーンの
動物を屠ってはならないのです。
天と地の繋がる場所、会見の天幕の戸口、祭壇の前です。
神の眼から自分の姿を見る事をさせられる!
神の家の中、御座、そして晩餐 宴会のテーブル=祭壇の前で。
これ以外では、本当の自分の姿に
出会う事が出来ないからです。
”わたしを通してでなければ、誰も父のもとに
来る事は出来ない。”その通りです。
”古い革袋=古い人に、新しいブドウ酒は入れられない。
新しい革袋=新しい人に、新しいブドウ酒=喜び
神のトラーの実質、教えを入れられるのです。
そして、神の御座の前、祭壇の前で、神の創造の
修復の姿を見る、そして、他者と共に、
主の中に引き寄せられて、”神の栄光を共に見る”です。
そして、皆と共に、喜び全開!溢れる!のです。
神の家の中、神の家の子達の本当の姿 神の栄光を見るのです。
人は、本当の目的地=神の中=エデン、そして修復された
元の姿。
本当の自分が誰かを知る領域に
たどり着いた時、やっとホット出来るのでは
ないでしょうか?究極の安息です。
罪人意識のままでは、本当の自分の姿探しの連続に
なって行きます。
全然わたしが教えられて来た内容と、違う事が
この神の家の、コバーンの儀式の中で教えられていたとは。
夢にも思いませんでした。
肉眼で見える、あの雲と火の柱と同じです。
栄光なのです。
幕屋、神殿の中にあった火は、天から神が下した火
シナイ山、シャブオートの火と同じなのです。
その下った火は、朝も夕も一日中ひと時も絶えないで、
燃え続けるのです。
肉眼で見る、神の栄光の火です。
絶え間ない礼拝です。
イスラエルの人が、何故神殿が無くて、悲しんでいるのか。
肉眼で、神の栄光を、この地上で目で見て、触れて、
確認出来る場所が無くなったからです。
だから、シャバットには、賛美歌を歌わない、
正当派ユダヤ教の人達は、真っ黒いあの衣装、
黒装束 喪服を着ているのです。
私達には、分らない世界、意識なのです。
もちろん、そんな格好しなくても、良いのですが、
何故神殿が崩壊されて、あれほど嘆き悲しんでいるのかは
異邦人には、分らない感覚、意識なのです。
続く