神の臨在がある 天と地が繋がる場所  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の解説は、本当に事細かに一つ一つの、ジグゾーパズルの
ピースをつなぎ合わせる、または、あの毛糸のセーターを
編むように一目、一目編んで行き、初めて、絵柄や
姿になると言うような、作業と同じだと思います。
繋ぎ合わせれば見える。
パズルの一つ一つのピースの面が、歪んでいたり、
欠けていたりしなければ=人の教えで改良されていなければ、
絵柄=神の真理 言葉の意図が,どんどん浮き彫りになり、
聖書の意図する姿が、見えて来るのです。

さて、レビ記を今ずっと学んでおります。
何百回となく、繰り返し学んでおりますけれど、その度に
色々な違う側面、主の意図、真実が見えてきます。

神殿や、神の家や、幕屋なんてトラーを知るまで
”何それ?”程度の意識しかありませんでした。
私は神の宮、神殿~と唱えながら、その意味する所も
深くは知らないまま。。。
私は、イスラエルの神を信じていたのに、
実質は、西洋宗教神学の神像をずっと信じて
来たのだと
、オリジナル、原典聖書に触れて初めて
その違いに気がつきました。

神殿=神の家=神の国=天国=エデン
全て同じです。
西洋神学は、バラバラ 別々に考えています。
これに気がつくと、一つのパズルのピースがつながります。
神の言葉も一つ、神も一つ、そして、教えも一つ 福音も一つ
神に造られた人達は、一つ体。
全部繋がっているのです。
神の性質、教えは一貫しています。
これを、バラバラにして、違う事を考えるので、
ぼやけてしまうのです。

モーセがあのシナイ山で見せられた、天の現実と
そこにあった神の家。
それを、そっくりそのまま 地上に造りなさいと
主に言われたのですね。
そっくりそのまま 主の言う通り!!!!
それでなければならなかった理由は?
少しでも違えば、それは、神に属するものでは
なくなるからです。
似て非なるものに、様変わりしてしまうからです。
似ている様でも、違えば違うのです。
コピー品なんて、実態も教えも両方の面で、アウト!
駄目なのです。
神の物に属さないものに、なってしまうからです。
少し違っていても、少し似ていても駄目!
そっくりその通りでなければならないと、主が言われたのです。
神の言葉は、重いのです。絶対なのです。

それは本当に、大事な教えなのです。
私たちは、自分たちの作り出した、自分達定義の様々な事を
信じたり、やっています。


レビ記も、多分殆どが、こんな様に教えられていると思います。
”罪の仮の許しのために 生け贄を捧げ、それで神の怒りを
鎮める、なだめるためのもの。
旧約時代の、十字架までの、仮の教え”

これでは、レビ記の中に書かれている神殿での教えを
捉える大前提からして、ズレているのです。

初めから、前提が曲り、ズレていたら、一体何を、
この神の家=幕屋=神殿の中で教えられ
伝えられたのかが、そこの時点から、既に
分らなくなり、分らないまま違う教えに様変わりします。

この人間の神学頭脳、脳回路をリセット!
その間違った前提、捉え方をリセット、全取っ替えしないと、
神の意図する事が見えません。
だから、一旦この世の人造神学の教えを一切排除して、
神の目を通して、神の意図している通りに、
読まないとなりません。

事実、殆どの場合、ここで語られている事が
罪の許し、十字架までの仮の許しと教えられています。

それは、聖書の事実でも、神の言葉でも,真理でもありません。

レビ記に、まずコバーンの捧げものを持って行く時、
どこに、この捧げものを持って行きなさいと
書かれていますか?

ここは、とても大事な所!スラッと読んで、深く考えずに
過ぎ去ってはならない場所です。
余りにも、聖書をただただ 字面を読み、一つ一つをじっくり
考え捉えると言う、作業が抜けると、脳回路が出来ずに
色々キャッチ出来るものが、どんどんすり抜けて行って
しまいます。
じっくり、考えて見るのです。
一つの意味を、じっくり、じっくり思い巡らす。

王の臨在する場所 御座の前に持って行く。
天と地が繋がっている場所です。
神の臨在が天とそして地にある場所です。
会見の天幕 その祭壇の前です!
どこでも、良いのではないのです。
ここ!神の臨在する場所、神の指示する場所!
ここ以外、祭壇の前以外では、コバーンの捧げものを
屠っては駄目なのです。死に値すると書かれているほど
厳重注意!これ以外は、駄目!の厳重な教えです。
この真理は、イエスさまの言われた事にもつながります。

”わたしが道であり、真理であり、命である。
わたしを通してでなければ、誰も父の元に来るが出来ない。”

イエスさま=生けるトラー=王=救い主
この方を通して出なければ、誰も神と言う存在の中に
引き寄せられる事は、無いと言われているそのもの。
ここ!!!!!ここだけ!です。
他に救いや、私達の本当の姿に、修復、戻れる場所はない!
のです。

どこで、この捧げ物をするのか、ペタ=入り口 幕屋の入り口
神の御座の在る神の家の、御座の前へ持って行く!
そして人は、この全宇宙の王の王、
主の主の臨在の前に立つ!のです。
祭壇の前で!
天の領域と繋がっている、神の臨在する場所です。

長くなるので 続く

今日の夕方から、シャバット。
完了の業=新しい人になっている事を、思い出す。
罪人のまま意識では、分らない、新しい人で生きれる世界!
それを与えて下さった事を、喜び祝う日なのです。
努力や自分の業の付け足す
余地の無い、完了の姿を思い出す日。
許され続ける罪人とは、ただの人造神学であり、
このシャバット、永遠からの神の教えを
塗り替えるものになってしまいます。
そして、修復 自分の姿に戻り、他者との健全な関係に戻り
神の元に戻る。

戻る、神の元に戻りなさい!=悔い改めと訳されていますが、
”戻る”と言われるのは、どうしてでしょう?
そうです。
私達は永遠の時、神の中に造られていたから
”そこに戻りなさい!”と、主が言われるのです。

元々居なかったら、戻れとは言わないです。
居たから、その場所、本当の自分の姿に戻るのです。
神の中=エデン=喜び=自分の本当の姿が
溢れる生ける水の中に、戻るのです。

Shabbat Shalom