完了の業で、天と地と 全ての創造物を買い戻した事実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神の世界、
天の領域、現実の姿を、実体験するには、私達は、人の教え、
既存の神の声とは、異なる、ずれている神学眼鏡を、
全て脱ぎ捨てて、神の目から、神の声そのままを、
真理からはみ出さず、神が見ているように、
全く同じ様に私達も、見る訓練を受ける、必要があります。

イエスさまが、”わたしを見た者は、父を見た”
と言われたのです。
そして、”あなた(父)がわたし(イエス)の中にいて、
わたしがあなたの中にいるように、彼ら(私達)も
そのことを知る様にと、祈られた意味を、
考える必要があるのです。
天の現実の中に、私達は、今いると言う事を、
話しているのです。

そして、イスラエルの神は全く一体=エハッドの神なのです。
人間の理解や、理屈では、説明出来ない、事実なのです。
西洋神学や、中世の絵画など見ると、
父なる神 子なる神、鳩のように 聖霊の神 輪っかまで
付いている~。
そして、 天使までいて、女の神まで居る訳??
母 マリヤまで 描かれていて、まるで 分断の
神像を画像にて、教育していた訳です。
パウロが見たら、驚き桃の木仰天するでしょうね?
一体、どこの神の姿なの?と。
イエスさまが見ても、そう言われるでしょうね。

同じイスラエルの神を、信じているはずなのに、
それぞれの中にある、神像は大分、多種多様。
多種多様であっては、ならないのです。
それが、全て、神の真理に、マッチする場合は
然りですが、もし、その内容が、人の作り出した教え、
神学や、だとしたら、退けるべきです。

だから、10の言葉の冒頭に、
”あなたがたのために、わたしの顔=実質 
実態の上に、別の顔を置いてはならない”
と厳重に 
忠告して下さったのです。

私達は、あたかも 神がばらばら3人居るような、
意識を持っていませんか?
なんだか、ガソリンスタンドのポンプ
から出る、ガソリンみたいに パワーが 聖霊で、
父、子がありと思っている、分離思考。
果ては、母 父 子みたいな 意識とか、色々あります。
そのばらばら思考は、反聖書的=ヘレニズム、
分断思考です。
でも、どれをとっても、同じ=ひとつなのです。
ECHAD=一つ以上で全く一つの神です。
どんな形で、表されようとも、イスラエルの神は
エハッドの神なのです。

さて、前回の、天の祭司の続きですが、日本語の聖書、
口語訳、新改訳聖書を見ていたら、翻訳も出ていない、
抜けている、しかし、重要な言葉がありました。
創世記 14:22
アブラムは、ソドムの王に言った、
「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、
わたしは誓います。
英語の、KJV、欽定版ですと、
And Abram said to the king of Sodom , I have
lift up mine hand unto the Lord the most high God ,
the possessor of heaven and earth
英語の訳ですと、天と地の所有者と、書かれています。

この所有者と訳されている言葉は、"コネー”
買う、買い取ると言う意味の言葉です。
何故、英語の訳では、所有者と書かれているのか?
日本語訳は、その”コネー”と言うヘブル語を訳した
言葉さえそぎ落とされています。
買い取れば、その買い取った物の、所有者になるからと
言う意味で、所有者と訳したのでしょう。
壊れた、破壊された姿で生きている人々、
神が、元々の創造した、姿から、遠くかけ離れて
神の子の姿から、遠くかけ離れて、かけ離れた場所
エデンの園の圏外を、生きている人々を、
いと高き神 救い主である神が、救い出し、
購い出し、買い取ったのです。

完了の業=血潮の業は、私達だけの救い購いでは
無いのです。
血潮が地に流された、そして、救い主は、
天の領域、天の幕屋 神の家まで運び、
その血潮を以て、全宇宙、全世界、天と地、創造物、
全てを買い戻されたと書かれているのです。
これが、レビ記の、コバーンの儀式に繋がる
奥深い、福音の根幹なのです。

そしてこの事実により、私達は、この世にありながら、
この世の者ではない。
天の領域に存在する人達と、
書かれているのです。
不思議ですね。
人間の頭脳で、理解出来ない、理屈も作り出せない
内容です。
でも本当なのです。
神がそう言われるから、そうなのです。
分らないからこそ、信仰により、受けとるのです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することです。
ヘブル11:1

続く

金曜日の 日没から土曜日の日没が
永遠にさだめられた シャバット。
神が全ての業を、終えて 止まったからです。

完了の業を 思い出す 人間的な努力の手を止めて、
思い出す日。
完了の業を思い出すとは、新しくされた人である
事実を思い出す日なのです。
もう付け足すものは、何も無い その事実を
思い出すために、設けられた日です。
そして、他者との修復、神との修復、自分自身の姿=新しい人
からズレていたら、修復=元に戻る=悔い改め
神の中に、戻る日でもあるのです。

Shabbat Shalom