前回の記事の続きです。
ローマ兵が、囚人を、十字架処刑する、工程のマニュアルが、
あったそうです。
当然です。死刑の行程全て書かれた、マニュアル。
基本的な考えは、手首と足首の骨、一番痛みが走る場所に
鉄の釘を打ち,木の十字架に人を貼り付け、しかも囚人が、
すぐには、死ねないようにしたのです。
かわいそうな犠牲者が,死ぬまで、一番長くて2、3日の間,
極度の苦しみに、貼り付けられるのです。
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この十字架刑と、他の古代ローマの十字架処刑の情報は
Vassilion Tzaferis,の“Curicifixion---
The Archaeological Evidence,”
Biblical Archaeology Review,
Vol XI No.1; Jan/Feb 1985,44-53 による
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死、それが、最終的に訪れる迄、たくさんの血を、
流すのですが、死に至るのは、それは犠牲者が、
血を、流したからではないのです。
死は,普通は窒息によって,もたらされるのです。
木や、十字架に、貼り付けられて、息を吸うために、
自分自身の体を、持ち上げなくてはならない。
休むとほとんど息が出来ない。
時々、ローマ兵が椅子を提供し=鉄の釘の=囚人が、
あまり休まないようにさせるのです。
ローマ人は死刑囚を近くの木に
貼り付けにしたのです。
だから聖書に”木に掛けられるものは呪われる”とあります。
オリーブの木は自然の十字架になるのです。
ある時は、十字架を作る。
垂直の杭が,地上にどすんと立てたれる。
犠牲者が処刑場に運んだ十字架の大梁に吊りあげられ、
犠牲者はその板の上に釘付けにされ、十字架の、
立てられる穴に、ドスンと投げ吊り上げられる。
これが、犠牲者の、悲惨さを増すのです。
木や、板は、犠牲者を、地上より、少し上の所に貼り付けて、
通る人達が、なぶったり、さわったり、叩いたり、
つばを吐いたり、何でも出来るようにするのです。
まるで物,同然の扱い。動物以下。
そして、究極の屈辱と、恥を、全世界にさらすのです。
イエスさまは、朝、木にかけられた時から、ずっと生き
長らえていたのですが、明らかに,地獄の苦しみに
匹敵したでしょう。
ローマ兵が、政府の役人に言葉を送り、弟子達、
または友達がイエスの、足を折るようにと、
リクエストしました。
夕暮れにペサハ=過ぎ越しの祭りの最中、
イエスさまを、世話していた者が
遺体を、はやく引き取りたいと、思っていたからです。
もしイエスさまの、足が折られたら、もう息を吸うために、
体を、上に持ち上げることが、出来なくなるからです。
窒息してしまう。そして死を迎えるのです。
この”足を折られない”とは、預言に書かれていますが、
この意味が何であるのか。
染みも傷もない、動物=イエスさまの姿
そして、私達の姿が、染みも傷、欠けも、不具合も
何もない状態であると、神殿の、捧げものシステムの
儀式の中で、教えられていた通りの事が、まさに
表されたからです。
神に造られた人間の本当の姿。
染みも、傷も、骨が折れていたり、目が無かったり、
どこも、欠けが無く、完璧 主の意図通りの姿に、
十字架の上で、私達を、修復して下さった意味が
あるのです。
イエスさまが、この時、木に掛けられたまま最後の言葉を
言うのです。
この言葉に注目!そのまま受けとらなくては、なりません。
「代価の支払いは完了した!」
それからイエスさまは、頭をたれて、息を引き取ったのです。
私達が、元の姿に戻るため、神の中に、戻るための全てを
もう完了して下さったと言われたのです。
永遠から、用意してくださっていた、購いの業。
血潮の業を、この地上の歴史の、あの時点で、
人類の、前に完了の業を、天の完了の業を、
地上に、引き出して、見せて下さったのです。
不完全な業、中途半端な業、将来手に入れる業ではない。
この世にあって、この世ではない、神の中=天の現実
=もといた場所=エデンの中に、修復された姿で
元に戻された=完了の業なのです。
これを、過去から未来へ、十字架を見る人達、
あの時、その場に居た人も、それ以前に、生まれた人達も、
そして、その十字架の出来事を、過去へ見る私達も、
同等に、この”完了の業”を、丸ごと受けとる事が出来る。
どの時代、どの場所、どの人でも、同等に与えられた神の業。
それが十字架の血潮=完了の業なのです。
完了とはもう付け足すものがない。
私達は、中身は修復された、元の姿に変えられているのです。
闇の王国の、主人の支配から、本当の主人=神のもとに
修復されている。
許され続ける罪人と言うなら、半分は闇の王国の
支配者の中に、今もなおも、属する者と言う事であり、
半分は神の者と言う意味なのです。
私達は、今神の中=エデン 元の姿で、元の場所に
戻っているのです。感じなくても。
これを、真剣に考え続けると見えて来る、完了の業は
中途半端ではなく 丸ごとだからです。
続く