一糸まとわず 木にかけられた イエスさまの無惨な死 完了の業 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエスさまが、処刑された場所 ゴルゴダの丘です。
ラテン語で、”カルヴァリー”。この言葉を、カトリックが、
取り入れ、カルバリの丘と、皆が使う言葉で、
定着しています。

ゴルゴダ=アラム語です。
どの言葉でもで”頭蓋骨の場所”と言う意味です。

ローマ政府の、死刑のやり方、一番惨い方法は、
木に掛ける刑。
イスラエルの、最高刑は、石打ちです。
イエスさまは、ローマ政府の、法律の下、
木にかけられたのです。

そして、木にかけたのは、ローマ政府です。
その中には、ローマ政府に雇われていた、
ユダヤ人もいた訳です。公務員ですから、役職です。
死刑に関わる、仕事をしていた、
刑務所に働く人達と、同じ立場だと、理解して下さい。

パウロも、極悪人ではなく、ローマ政府の下、働いていたで
あろう事。
そう、政治に関わる仕事をして、
このイエス(イエシュア)=肉体を取って来られた、
トラーに書かれている神、あのお方だと、
ダマスコに、上る途上に、直接、イエスさまが、
現れるまで、気がつかないままで、いたと言う訳です。

イスラエルの神、トラーの神を信じながら、肉体を取って
来られた、あのイエスだと、気がつかなかった。
私も、肉体を取って来られた、文字で書かれたトラー
=イエス=神御自身=文字で書かれたトラー=イエスだと、
気がつかなかったのと、全く同じです。

そう 聖書に書いてあるのに、盲目で、
気がつかなかったのです。

自分の信条、願望とは、全く、異なるけれど、日本でも、
また、他のどの国でも、その仕事に、付いている方達は、
役職上、死刑執行しなくては、ならないのです。
私は、しませんと言う場合、その職場を、首になるのです。
殺人に、手を貸したい、そう願望するから、するのでは、
ない事は、普通に,理解出来ますね。仕事なのです。

ちまたでは、イエス殺し=ユダヤ人と、誤解して
教えられていますが、ローマ政府の元、イエスさまは、
死刑=木に、かけられたのです。


犯罪者を、公共の場で,さらし者にして、木にかける。
そうすることにより、他の者が、犯罪を、犯すのを仰止し、
もし、政府に反逆する行動を、取るのならば、
あなたにも、十字架処刑という、運命が待ち受けているぞと、
他の者に対して、同時に警告する、効果が、あったのです。

死刑囚が、所定の、場所に到着すると、
彼らは身の毛のよだつような、仕事を急いで始めるのです。
死刑準備です。

私は、以前、タイトル忘れましたが、刑務所で働く、
死刑執行を、手がける職に、付いている人の、人生を
小林薫が演じる映画を見て、なにか、得体の知れない、
死の匂いと、それが、どんなに、おぞましいものかと、
感じた事があります。生きている人を殺す。
いやだろうな。。。本当に。

十字架に、かけられた犠牲者を、実際に見たら、それが、
どれほどむごいことなのか。

その処刑の、工程のすべてを、実際に、目にする場合、
それはぞっとする、おぞましいものなのです。
ローマ政府が、囚人の背中の皮を、得に、意図的に、
破るために、ムチで打つのです。
わざとそうするのです。
それだけで、死んでしまう人も、いるほどです。

犠牲者=ムチ打ちの後、まだ生きていたとしたら、
洋服を、すべて剥がされて、丸裸にさせられる。
これは意図があって、そうするのです。
恥の局限!!!!を味合わせる。
イエシュアが、あの日に、同じように、他の死刑囚のように、
一糸まとわず、丸裸にさせられ、十字架を、背中に、
背負わされて、処刑場に、運んで、担いで行ったのです。


ヘブライ語で、“罪の許し”=ナソー 文字踊り、私達を、
仰圧している。重荷、苦しめるもの、押しつぶして
いるものを、私達の上から、持ち上げ、取り上げ、引きはがし、
遠くに、取り除くと言う意味です。


まさに、あの十字架の木を、背負って下さった、
イエスさまは、私が、もう負えない重たすぎる、私を潰す、
重荷、仰圧、苦しみ、束縛、果ては、私を破壊する要素を、
全て、丸ごと、負って下さり、東と西が離れているように、
古い人、修復不可の性質を、丸ごと、遠くへ、永遠に、
葬って下さったのです。

考えてみて下さい。想像して見たら、分ります。
どんなに無惨で、究極の侮辱、屈辱羞恥。
丸裸で人前を歩けなんて、十字架でなくても、これだけ
考えただけでもう 涙の洪水です。

普通出来ないでしょう?
公の場所で、自分の知り合い、また、知らない人の前で、
丸裸にされたら、もう、生きて行けないと、思うでしょう。

そんなにしてまで、私達のために、全てを、
背負って下さったのに、恥も、罪も、丸ごと負って、
一度で完了!と言ってくださったのに。
その完了の業を、なし崩しにし、
台無しにする、言葉=なおも”許され続ける罪人”

と言う、ヘビの嘘に騙され続けて、人間の教えを取り、
尊重し、神の言葉とは,違う事を、言っているのにも、
気がつかないまま、皆で、復唱、大合唱し、その教え、
ヘビの意図を、浸透させる、闇の国の業に賛同、
協力しているのです。
神の言葉とは、違う言葉は、すなわち、この世の闇の王国に
属するものなのです。

完了の業の真実、現実とは、うらはらの、ヘビの嘘。
それを、分らないまま信じ込み、分らないから、
許され続ける罪人と、思い込み、信じ込み、宗教の箱の中から
出る事が出来ない。

飛び出て来たい!と思う、本当の自分と、ほとばしり出て来る、
はずの、喜びの噴水!聖霊にどっぷり浸る喜び、ここちよさ、
現実=エデンの中、神の中に戻っている現実に、宝に、
重たいフタが、されているのです。

イエスさまの、声、言葉とは、違う、不完了な業
将来そうなる、天に帰ったら~。いいえ、信じたら瞬時に、
今、神の中=天の国=神の家=エデンの中と、書いてある。
人間的には、理解不可でも、それだからこそ、それが、神の業
現実なのです。

自分の感覚、感じや、自分の見かけの姿に、頼らない!
新しい人になっている。いつも、新しい人の姿で、
そう行動出来なくても、これから知って行くのです!
その領域を、神の中に戻った、修復された人として、
戻った=エデンの園に修復された現実を!
信仰により、受け取り、その真理から、飛び出ないで、
固く神の言葉を、握りしめ続け、生きる!
神の真理から、はみ出さない、イエスさまの、完了の業に
留まる人は、この未知の領域=天の中=神の中=エデンの中
元いた、自分の本来あるべき姿、場所に、戻っている事、
体験する事に、至るように、なるのです!!!スゴい業です。
完了の、業は、半端じゃない~!

今でも許され続ける汚い罪人と、皆で
大合唱させられているのは、誰の思惑か、考えると分ります。
完了の業の後も、未だに,ヘビは抵抗しているのです。
イエスさまは、この、罪人の、姿から、解放するために、
十字架に掛かられたのに。

これこそ、恵みを、このイエスさまの飲まれた杯を
無駄にする、行為に他ならない
と今は固く思います。


続く