章かぶり物は、この岩の上と、同じ
原語不理解、誤解から 生じる問題だ。
単純だ。
ギリシャ語を、母国語とし、聖書ギリシャ語
(コイネーグリーク)に慣れ親しんでいる人に、
聞けば直ぐにで分る。
”あれは、帽子や、かぶり物ではなく、頭髪の事を話している”
という事を。
かぶり物の話では、ないのです。
日本人に、”その頭なんとかしなさい。頭切って”と言うとき、
頭を、頭蓋骨を、切り取るなんて思わない。
それは、散髪に行きなさいという事。
あの 箇所は 1 コリント 11:2~10は
そういう事が書いてある。
女の人が、短髪で居る事は、その当時の文化では、
恥ずかしいこと、髪の毛を、たらしている人は、
道端の娼婦の、姿と、同じに見える事。
いかがわしい商売の人達。
男が長髪していたら、ちょっと あちら系って
そういう背景があったのです。
しかも、問題の内容を、詳しく書かれてないから
良く意味が分からない。どんな問題が起っていたのか。
人の電話の会話を、立ち聞きするようなもの。
だからパウロのトラーからのその土地文化に住む人達の
適用例を、聖書に書いてあると、そのことが、今のこの文化の
私達に当てはまらない事がある。
神の言葉が変わるのではない。
書簡に、書かれているのは、当時の、その文化の
異邦人の教会での、トラーの原則の適用例。
まさに、書簡はパウロは、それぞれの場所での、
当時の問題の対処を、トラーからの適用を用いて書いている。
だから、そこに書いてある。トラーからの実際生活に於ける
適用例だ。
書簡で書いてある問題は。
だから、それを読んでイコール
”聖書に書いてあるから!”そうするとはならない。
かぶり物をすることが、敬虔の現れとか、
その箇所で話している事は、そうではない。
原典では、そういう事を、話しているのではないとすると
かぶり物する意味ないし、しなくても良いし、逆に、
男性は帽子を被っては駄目なんて意味はない。
かぶり物しないと、祈れないわけではない。
もしそうだとすると、絶えず祈りなさいが、出来ない。
お風呂の帽子を被って入らないし。
男の方も、暑い日は帽子被らないと、危ない。
と言うことは、聖書の中身の一つことだけ取り、他を却下して
生きるのか?それもハター。
しかも、祭司達は帽子を被らないとならない。
聖書には読み方と言う物が有る。
男が女の頭と言う、頭と訳されている言葉も
ヘブライ語では、ローシュ優劣ではない。
支配するという意味でもない。
源=必要の源=責任を任されているという事。
一つ体から出て来た二人だから。
父は、長子は、ローシュだ。
家族の必要全てを、供給する源、責任を負わされている。
アジア圏では、翡翠のブローチや、ブレイスレット着けてると
すぐに、風水とか、占いにつながるイメージが。
占いする人が、ある意味、意識でつけてるから。
だからそう言う場所では、身につけない方が良い。
でもヨーロッパに行けば、そんなの関係ない。
誰もそんな事、思わないからOK.
誤解招かないために配慮する。
イスラエルでは、十字架は身につけない方がよい。
ユダヤ人達をドン引きさせる。退ける。
十字架は、迫害、恐怖の印だから。
ギリシャ人にはギリシャ人、ユダヤ人にはユダヤ人のように
とは、色々な時代に、色々な教会が存在する、
別ものが存在すると、解釈されているかもしれないけれど、
これも原典聖書に書かれて居る事とは異なる。
ギリシャ人には、ギリシャ人に対する対応、
日本人には、日本人に対しての対応、
ユダヤ人には、ユダヤ人にと、それぞれ、文化が違うのだから
分る様に対処する、関わる、そうすると言う意味で、
書かれているのですね。
時代によって、主の教えや、呼び出された人の
種類が変わるとは、西洋思想、人の造り出した
神学に基づき出て来た教えだと聖書を読むと分る。
ミ ケダム。永遠の時から、私達が主の中から
一体として、造られていたこと。
そこから、出て来た事が分れば謎が解ける。
同じエッセンスから 出て来た主に造られた人達。
主は、永遠から、永遠まで、変わらない方。
いつの時代も、恵みと、愛の神。
どの時点でも、同じ福音、救い 新しい人を
受けとれた事が、聖書にかいてある。
その人に合った、その文化に合った、対処法がある。
海外に長年住むと、それは痛いほど良く分る。
私達日本人の常識や、普通の事が
世界では、非常識な事がある。
良いとか悪いとかの問題ではないのだ。
古代の世界、しかもヘブライ思想のヘブライの世界の
聖書は、ヘブライ思索で読む。
時代錯誤の自己流解釈はしない。
原語 原典聖書に戻って確かめる、トラーに戻り
意味を探す。
先入観なし、聖書を既存の脳回路からではなく
色眼鏡を外して、始めからじっくり丁寧に読み直す事
必須と堅く心に思い直しています。