知られざる本当の教会史 キリスト教の由来 2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

そこで、考えついたのが、ユダヤ人イエス信者と、
同等ではないという事を、ローマ政府に、見せるために、

聖書の中身を変えちゃった。
聖書は、変わらない。神の言葉は永遠に変わらない。
神の言葉は、永遠に固く立つ
変わらないのに異邦人イエス信者が、
様々に変えてしまった!

どういう事かというと、ユダヤ人と 見なされないため、
課税されないため こういう事を、して変えてしまった。
簡単に言うと、主の教えを曲げた!
無効と見なした。
ユダヤ色、ユダヤ人と同等と思われる様々なユダヤ色ある
教えを捨てた。
神の家の子の印=婚姻契約の印を全部捨てた。

1 私達は、ユダヤ人とは違う神さまを信じている。
キリスト教というのを信じてます。
2 私達は、コーシェル食も食べません
3 割礼もしません
4 金曜日の夕方から始まる安息日も しません。
日曜日礼拝という、内容も、意味も曜日も、 
新しいものに変更です。

安息日の7日目というのは、大きな大きな意味が
秘められてる。それをすり変えた。

プラス、安息日の意味さえも、隠されてしまって
西洋宗教の世界では、誰もその意味を
今や教える事もない。

5 聖書で 主の口から 直接語られた、永遠にこれを 
覚えてしなさいという
大事な主との出会い 教育ツールである
例祭全部 無視~!そげ落とした。

ラ アドナイ 主の祭り
ユダヤ人の祭りと訳されているけれどもそれは誤解。

主に購われた ユダヤ人も異邦人=残りの民=イスラエルは
神の定めの時を主と特別な出会いをするために主の元に出る。
生きてイスラエルの神の姿を表す、しなさいと 
主が言われている。

そのかわりに、私達異邦人信者は、クリスマス 
イースターを造り、それを祝う様になった。

6 その他様々な ユダヤ人が信じている、旧約聖書の主の
教えとは、私達異邦人は全然関係ありません。 
新しい教えを信じているので、彼らユダヤ人とは違います。
トラー(旧約聖書と呼ばれている 実は神の教えという意味)
を捨てます。もう、今では余り意味のないものと 見なします。

実はこういう事だったなんて。

西洋宗教は、この 1世紀終わりから2世紀の、
異邦人イエス信者たちが、迫害を免れるために、
主に冒涜と、侮辱と、裏切りをして、
造り出してしまったものだった。

神の言葉が変わったからでは無かった。

ある意味 ペテロがした事と、全く同じだ。
否定した。私は、あの人(いえすさま)と
何の関わりもありません。
恐怖と、身の危険から そういった
2世紀の 異邦人イエス信者。

部分否定だけど、裏切りの、質は同じ。
なぜなら、主ご自身であるトラーを、
無視し、部分的にでも無効にし、
教えをそげ落とし、してはいけないこと
してしまったんだから。でもそうしたとは、
現代気がつかれないまま。

イエスさまや、パウロや 弟子が
そうしたんではない。
私の言葉を、一点一画も変えてはならない。
付け足したり、差引いたりするものは
のろわれると 言われたのは
誰でもない、主ご自身だということ
気がつかないと。


10戒と呼ばれる、実は10の言葉 神の口から
直接語られたんだよ シナイ山の婚姻契約の時に、
わたしの他に 神があってはならない。
これは、本当は”わたしの 顔の上に別の顔を乗せては
ならない。”と言う言葉。
つまり、別のものに造り変えては、神の言葉を別物で
覆い隠しては駄目よ!。あなたのために、あなたが損なわれ
ないために、そうしては駄目だと厳重忠告された。
 
固く言われたことに、逆らってしまったと言う事なんだ。
別の物になってしまうから。混ぜ物をしては いけない!
警告だ。

イエスさまが 来たから トラーは終ったと、
(律法と誤訳!誤訳されている部分) 
神様が本当に言ったのだろうか?
それとも、人間が勝手にそうしたのか?
歴史を調べれば、聖書に書いてあるかどうか調べれば
事実ははっきりとそこにあるから分る。

明らかに、人間の都合。迫害、弾圧、重税が怖かったからだ。
イエスさまが来たら、新しい教えに変更と言われてない。

それどころか、トラーを成就するために来たと言われた。
主が、肉体を取ったトラー、それを生きるお手本を
見せてくださったでしょう地上で。

私は、ショックでした。
何て事信じ 込まされてたの?私が信じていた事は、
聖書とはずれた事だったと知るショック。
人間の都合で、変えられた教えや、神学を刷り込まれた。

大事な 大事な 主の言葉を、無視するように信じ込まされて
しまう弊害。
もう、意味なくなったと教えられてた。大事なのは聖書の
最後の三分の1。この教えって聖書とは異なる。

どうりで、喜びに出会えなかった訳だ。長年。
偽の自己像と、変えられてしまった神の言葉。


何が、欠けてたか気がついて、分ってしまった今では
分る。

続く