ルカ1章
1、2)私たちの間ですでに確信(成就)されている出来事については、初めからの(キリストの)目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、
3)私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
4)それによって、すでに教えを受けた事がらが正確な事実であることを、よく分かっていただきたいと存じます。
マルコ4章14節
種まく人は、みことばを蒔くのです。教会に献金することが種を蒔く事ではないのです。
これは、私だけかもしれませんが、結構多くの教会では、例えば、日曜日の集会で、朝昼晩と何回かに渡って礼拝をする所があると思いますが、その都度礼拝ごとに、必ずと言っていいほど、献金の時がもたれているような気がします。
そして、そこに集まっている信者の人達の殆どは、朝昼晩と大体が同じメンバーのように思います。
そこで、私がどうしても腑に落ちないのは、同じメンバーから一日に何度も献金を要求する礼拝って、何なんだろうという疑問です。
マルコ16章
19)主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右に着かれた。
20)そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らと共に働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
使徒17章
10)兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。
11)ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
御言葉なくしては、福音は宣べ伝えられません。そして、御言葉を通してでなければ、本当の福音とはいえないのです。説教者が、聖書の御言葉を通して語らず、自分の思いや意見をただ語るだけなら、それは本当のキリストの救いにつながる真理の福音ではないからです。
第二テモテ4章
1)神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら責め、戒め、また勧めなさい。