ぶどうの木 | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

私が現在使用している聖書は、私が小学校卒業と同時に、当時通っていた土曜学校の牧師さんから、その終了記念に頂いた物です。

 

なので、結構くたびれています。

 

なぜ、日曜学校でなく土曜学校だったのかについては、諸事情があったのですがここでは触れません。

 

当時、毎週土曜日の午後2時頃だったかに、母の所属していた教会の牧師さんが、近所の公民館にやって来て、数人の子供達に聖書のお話しを分かり易くしてくれていました。

 

しかし、最後の方になると、公民館側の方で牧師さんに場所を貸さなくなり、結局、私一人だけがその教会学校に残りました。

 

集会する場所がなくなってからは、ほとんど牧師さんの小さな軽自動車の中で、聖書のお話しを聞くようになりました。

 

土曜学校最後の日も例外に漏れず、車内でのものでした。

 

そして、牧師さんは私に新旧揃った聖書を終了記念として下さったのですが、その聖書の一番最後のページの白紙の部分に、ヨハネの福音書15章5節にある「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」という言葉を記して下さいました。

 

以下に、ヨハネ15章1節から6節を載せます。

 

ヨハネ15章 (John 15:1-6)

1)わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

 

2)わたしの枝で実を結ばないものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 

3)あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです

 

4)わたし(の言葉)にとどまりなさい。わたし(の言葉)も、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたし(の言葉)にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

5)わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたし(の言葉)にとどまり、わたし(の言葉)もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたし(の言葉)を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

6)だれでも、もしわたし(の言葉)にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられ、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

 

キリストであるぶどうの木(キリストの言葉)に留まることにより、その木(キリストの言葉)から栄養が十分に枝(クリスチャン)に行き渡る事によって、枝(クリスチャン)は実を結ぶことが出来るのです。

 

しかし、ぶどうの木(キリストの言葉)から離れてしまっている枝(クリスチャン)は、枝(クリスチャン)だけでは栄養が取れないので、実を結ばずに枯れてしまいます。

 

私達クリスチャンは、霊的栄養となるキリストの言葉、いわゆる聖書の一つ一つの御言葉に日々養われる必要があるのです。

 

今日この事を書くように、聖霊様に示されました。

 

 

このメロディーが、最近よく聞こえてきます。