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グラサン日記

ロックバンド「ザ・クレーター」のボーカルギター菊永のブログ

初の全国ツアー「僕とロックの旅」、SUMMER SONICへの出演、そしてファイナルステージまで勝ち進んだ「Redbull Live On The Road」。

盛りだくさんだった2013年を経て、明けた2014年のザ・クレーターは早々に新作のレコーディングに入りました。

そして、2013年中に生まれていた「小悪魔のブルース」、「夢オチ」の2曲の新曲と、ザ・クレーター初期の曲から「流星群」を新録。

※「小悪魔のブルース」MV

 


さらに、アルバム「僕とロック」から「 I LOVE YOU」「アブノーマル」「悲しい歌」の3曲を、まったく違うテイストにリアレンジした「IN & OUT ver.」を収録。

ミニアルバム「IN & OUT」を4月23日にリリース。


※ザ・クレーターON LINE SHOPにて取り扱い中。
https://thecrater.jimdo.com/shop/

レコ発イベントは、渋谷CHELSEA HOTELで、「Red Bull Live On The Road」を経て知り合った前年チャンピオンのCRACK BANQUETを迎えての2マンLIVEでした。


ゲストとしてCRACK BANQUETのSaxユアサイクカを迎えて、「ブラックユーモア」などを披露したり、スペシャルな夜でした。



そしてその後、ザ・クレーターは再び全国ツアーへ出ました。

「IN & OUT」ツアーと名付けたこのツアーは、4/28(月)新潟 CLUB RIVERSTを皮切りに、北は岩手県盛岡 the five morioka、南は福岡薬院UTEROまで、ファイナルは12/21三軒茶屋HEAVEN'S DOORまで、半年以上をかけて合計33公演行いました。




その中でも印象的だったのは、仲の良いバンドで、素晴らしくPOPで抜群に良いメロディーを歌っていた「ジェニファー」とGWに一緒に回った宇都宮 HELLO DOLLYとつくば PARKDINERでした。

茨城のつくばPARKDINERというところは、周りには田んぼや畑しかない、何もないところにありました。
 

何かの工場のようなバカでかい建物の中には、もちろん広いステージとフロア、そしてバーカウンターなんかがあって、吹き抜けの2階には広々とした楽屋があって、スケールがアメリカか?と思うほど大きいライブハウスでした。

そう、どこかに似ている、何か見たことあるなぁ。。。と記憶を辿ると、思い出したのは、タランティーノが脚本を書いてロバート・ロドリゲスが監督の名作ホラー?映画「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の舞台になった建物でした。あれはトップレスバークラブでしたが(笑)

 

とにかく、バカでかい音でロックをやるにはこれ以上ない場所でした(笑)

PARKDINERでは、あれ以来一度もやっていないけど、またいつかやってみたい!しかも、ジェニファーと一緒にできたらいいなーと夢見ています。

LIVEの後、みんなで酔っ払って肩組んで撮った写真があったっけなー。(あった!)



名古屋 CLUB ROCK'n'ROLLも衝撃でした。
なんというか独特の雰囲気で、本番前は物凄く居づらいというか、いきなりタイムテーブルは事前にもらっているものと予告なく変わってるし、店の人は目を見て話をしないし、対バンの皆さんも話しかけるなオーラ全開だし(笑)

と思いきや本番終わったら、めちゃくちゃフレンドリーだったり。

びっくらこきましたね。

ツアーはこれだから面白い(笑)

8/17の、福岡 薬院 UTEROは、初の九州LIVEでもあり、これも忘れられないです。

現在は、それほど離れてはいない清川という場所に移転しているUTEROは、薬院にあった当時は飲み屋のたくさん入った雑居ビルの地下への階段を降りたところにあり、隣がママがいるようなクラブかスナックだったと思います。

物凄く狭いフロアと、物凄く狭いステージでしたが、熱気が凄くて、福岡のライブハウスシーン、ロックシーンの温度を肌で感じることができました。

そういえば、この初の福岡LIVE、鬼のような移動スケジュールでした。

往きは神戸スタークラブでのライブ後の福岡への移動でしたが、帰りが、福岡でLIVE後そのまま東京まで一直線という無茶な行程(笑)

 

 

琵琶湖を望むシモセニアン


13時間くらいを、バンちゃんとシモセニアンが交代し、SAでの小休憩を除いてはほぼノンストップで走り切りました。
今思い出すと、あれは強烈でした。

あの移動と比べると、盛岡からの帰りも、高知からの帰りも、そんなに遠い気がしなくなってしまいました。

大阪が近所に感じるくらいです(笑)

その他にも、たくさんの出会い、たくさんのエピソードがあって、一つ一つのライブを語ろうと思えば、いくらでも語れるほど、どのLIVEもかけがえのない思い出です。

2014年の「IN & OUT」ツアーは、12月の金沢 AZ ツアーセミファイナル、そして、三軒茶屋HEAVEN'S DOORでのファイナルまで、前回のツアー「僕とロックの旅」を大幅に超える規模のツアーになりました。

「月刊ザ・クレーター」とともに走った2012年、年末にフルアルバム「僕とロック」リリースしたザ・クレーターは、翌年2013年、初の全国ツアー「僕とロックの旅」に出ました。

並行して参加していた「Redbull LIVE ON THE ROAD」では、皆さんの応援もあってWeb投票、そして大阪は難波ロケッツでのクウォリファイステージのLIVE審査を勝ち抜くことができました。

※Red Bull Live on the Road 2013 - 説明ムービー


Redbullのイベントなので、楽屋にはいつも大きなボックスに、氷で冷えたRedbullがたっぷり用意されていて、飲み放題でしたね。




と言っても、強烈なエナジードリンクなので、
そんなにたくさんは飲めませんでしたが(笑)

その後再び行われたWeb投票は、クウォリファイステージを勝ち抜いた8バンドが、5バンドのセミファイナルステージ進出枠を争うものでした。

そして、そのセミファイナルステージが行われる舞台は、あの「SUMMER SONIC」!

「SUMMER SONIC」はフジロックに次ぐ日本最大級のフェスで、この年のメインは、METTALICA。
http://www.summersonic.com/2013/
簡単に立てるステージではありません。

それが手の届くところまで来ていました。

なんとしても出たい!

地元東京で応援してくれている皆さんだけではなく、ツアーを回りながら出会った全国の皆さん、TwitterやFacebookで繋がることができたWebの皆さんの熱い声援のおかげで、見事ザ・クレーターは「SUMMER SONIC」出演を決めることができました。

やったー!
(文字に書いてしまうと簡単になってしまいますが、ピリピリとした緊張感の中、メンバーはもちろん、皆さんと力を合わせて闘った日々だったので、大変だったけど、喜びも最高に大きかったです!)


そして真夏、8月10日に東京会場の幕張で行われた「SUMMER SONIC」のステージは、
想像以上の激戦となりました。

 

早朝に会場入り

 

開場前のマリン球場駐車場にある、「ISLAND STAGE」


体感温度40℃以上の、炎天下のアスファルトの上に設置されたステージでのLIVE。

脱水症状で倒れてしまう人も出る中、
何もかもが初めての経験だったSUMMER SONICでしたが、
なんとかライブをやり切ることができました。



10:30の出番を終えたザ・クレーターは、同じ炎天下の中、駆けつけて応援してくれたみんなと健闘を称え合い、一度楽屋に戻って身体を休めた後、最後まで、SUMMER SONICを思い切り楽しみました!

 

マリンスタジアムで観たFALL OUT BOY、マウンテンステージで観たCHEAP TRICK、そして何と言っても、マリンスタジアムのヘッドライナーだったMETALLICAの『Master Of Puppets』完全再現ライヴ!

どのLIVEも最高でした!


その後のザ・クレーターは、ツアーLIVEをつづけ、
後日結果の出た、SUMMER SONICの会場投票でもセミファイナル勝ち抜きが決まり、11月23日、渋谷O-EASTにて行われた、ファイナルステージへの進出を果たしました。

ファイナルステージは250バンドの中から勝ち抜いた3バンドで争われ、結果、優勝することはできませんでした。

すごく悔しかったです。

その結果を噛みしめながらも、応援してくれた皆さんと共に戦った日々は、かけがえのない思い出となり、今も僕らを繋いでくれています。

※Red Bull Live on the Road 2013 ドキュメンタリー

 

「monthly oneman show 月刊ザ・クレーター」と並行して怒涛の都内LIVEを重ねた2012年のザ・クレーターは、結局1年間で55本のLIVEを行いました。

そして、その年の年末、2012年12月12日、それまでの活動の集大成的なアルバム「僕とロック」を全国リリースし、翌2013年年初から、北陸石川県金沢を皮切りに、初の本格的な全国ツアーに出ました。

ツアーの一歩目となった金沢は、メンバーの出身地でもなく、その頃は友達や知り合いさえいなくて無縁な土地でした。

が、なぜ行くことになったのかというと、アルバム「僕とロック」からの1st MV「Free Generation」が、
FM石川さんで、1月度のPOWER PLAY「MUSIC PICK UP」に選ばれていたからでした。



ザ・クレーター「Free Generation」MV

 


そういえば、そのツアー最初の2回くらいは、4人揃って夜行バスで行ったことを思い出します。

僕ら4人の席は最後列でしたが、その最後列の端にいた、おそらくロシア系の外国人が、夜通しパソコンを煌々とつけていて眠れず、席を交代しながら寝ていたなんてこともありました。

夜行バスでのツアーは、楽器を下の荷物倉庫に積んでもらえない事もあったり、なかなか辛い経験が多かったです。

そういった苦労もあり、その後、バンドカー(シモセニアン所有)が登場しました。

その後、OKDの出身地の中津川を経ての名古屋や、静岡、大阪、富山、そして金沢を周りました。

 

静岡騒弦でのリハーサル風景


同時に、前年からの怒涛の都内LIVEもとどまることなく続いており、月に6本程度のLIVEをしていました。

さらに、並行して参加していた、インターネット投票とLIVEを組み合わせたバンドコンテスト「Redbull LIVE ON THE ROAD」でも、応援してくれる皆さんのおかげでWeb投票を勝ち上がることができ、4月26日には初の大阪LIVEとなる、なんばRockets でのLIVE審査が決まりました。

本当はザ・クレーターの初めての大阪LIVEは、初めての全国ツアー「僕とロックの旅」の中で別のライブハウスでやる予定だったんですが、運命というのはわからないものですね。

初の大阪LIVE、ということで、現地大阪へは、前日に入りました。

大阪、道頓堀に到着してみんなで食べたのが、串カツでした。

うまかったなー初めて食べた大阪の串カツ。


当時は、今みたいに串カツ田中が東京になかったので、

2度づけ禁止のソースなど、本場大阪の串カツに感動したのを覚えています。

肝心の翌日のザ・クレーター大阪初LIVE、「Redbull LIVE ON THE ROAD」クウォリファイステージでは、
前年から様々な環境で多くのLIVEを経験してきていたこともあって、急遽決まった(確か2週前くらい)LIVEだったにもかかわらず、臆することなくベストなパフォーマンスを披露することができました。

 



その後、さらに2度目のWeb投票、LIVE審査も勝ち抜き、

ザ・クレーターは遂には次のステージ「SUMMER SONIC 2013」への出演権を手に入れたのでした。

その年は、大阪のサーキットイベント「MINAMI WHEEL」や、都内ではお茶ノ水女子大学の学園祭「徽音祭 」などにも出演。

ツアーも大阪や名古屋を中心に、精力的に回りました。

 

 

2011年後半、震災の影響がまだ残る時期に、僕は渋谷下北沢新宿あたりの様々なライブハウスに出入りしていました。

とあるLIVEで出逢った、ベンフィカというバンドのベースを弾いていたOKDに誘われ、赤坂のL@NにLIVEを観に行きました。
とにかく第一印象は「ベースの音が良い(好き)」ということだったのを今も覚えています。

これは誘わない手はないと思い、すぐにザ・クレーターへ誘いました。

その後、OKDをサポートベーシストとして迎えたザ・クレーターは、しばらく、LIVEの度に違うアーティストをゲストギタリストに迎えて、ライブをしていた時期がありました。

ベルノバジャムズのYDO
シャイガンティの神保くん
武蔵野の森さん
ゴズミック☆エアプレインの唐沢さん

個性的な人ばかりで、彼らと共に立ったステージはいまだに覚えており、どの夜もキラキラとした思い出です。

今思えば、過渡期であったその時期にしか実現出来ない、贅沢な夜でした。

その中で、三軒茶屋HEAVEN'S DOORでの弾き語りLIVEで対バンしたのがきっかけで出会いったのが、ばんちゃん(白岩萬里)でした。

当時、僕の職場のあった代々木の道端で、昼休みにばったり会ってラーメン屋でランチする、という偶然もあったなぁ(笑)

ばんちゃんをサポートギターとして迎え、何度かLIVEを経て、意気投合。

2011年末、OKDとばんちゃん2人が正式なメンバーとしてザ・クレーターに加入することが決まり、
2012年元旦より、新生ザ・クレーターが活動を開始する事になりました。

2人を迎えた2012年のザ・クレーターは前のめりに、とにかくLIVEに次ぐLIVEをしていき、グルーヴもグングン上がって行きました。

その中で、毎月ワンマンをやろうというアイデアが出て、

3月にスタートしたそのマンスリー企画は「月刊ザ・クレーター」と名付けられ、
途中スケジュールの都合上できない月もありましたが、その年の12月までほぼ毎月新宿Motionで開催されました。

「月刊ザ・クレーター」 は、最終回以外はGuestバンドを迎えて行われ、毎回新曲を含めた「mr.match pomp」というEP CDをリリースしていました。
https://thecrater.jimdo.com/shop/


月刊ザ・クレーター以外にも毎月10本弱のライブをやりながら、EPのレコーディングもするという、音楽漬けの日々。

 

※こちらの月刊ザ・クレーターのフライヤーは、創刊号から最終回まで、エレキングのシゲちゃんのデザイン。


年末の最終回では、 「mr.match pomp」 の集大成、
さらに新曲を収録したアルバム「僕とロック」の発表記者会見をやりました。


 

かなちゃん、神崎時代のザ・クレーターは、ミニアルバム「リハーサル」発売(2010/10/27)後、ライブ活動を活発にしていきました。

 

※今はなき、渋谷屋根裏でのLIVE


そして年が明けてしばらく経ち、まだ寒かった7年前の3月11日、東日本大震災が起きました。

その日の夜は、アルバム「リハーサル」をリリースし、当時お世話になっていたレーベル、Clearの周年記念イベントが渋谷CHELSEA HOTELとSTARLOUNGE、2会場同時開催で行われる予定でした。

ザ・クレーターは、CHELSEA HOTELに出演することになっていたため、リハーサルの順番を待っていた時に、揺れを感じました。

CHELSEA HOTELは地下にあるのに、もの凄く揺れたため、スタッフの皆さん含めて声を掛け合って全員で外に出ると、ビルが波打ったり、大変な状況になっていました。

その時はまだ、震源がどこなのかなど、状況はわからなかったのですが、明らかに通常の地震とは違う、長い、大きい揺れだったのを覚えています。

まさか遠い東北が震源の地震と知った時は、呆然とするしかありませんでした。

ライブは中止になりましたが、その後、東京は鉄道が全く機能しない状況になっていたので、

帰宅することもできませんでした。

そんな状況の中、CHELSEA HOTELのご好意で、会場を、僕らを含め一般の帰宅難民になった人々に解放してくれました。

まだ寒さが残る3月の東京、暖房や毛布、そしてTVまで用意してくれて、Twitterなどで拡散した情報で知って集まってきた帰宅難民の方々と朝まで過ごしました。

その後のことは、ご存知の通り、多くの人が亡くなった大災害になり、原発事故も重なって、東京は大混乱に陥りました。

デマなども拡散しており、何を信じればいいのか、自分に何ができるのか、しっかり自分で判断しながら毎日を過ごしていかなければなりませんでした。

ザ・クレーターの活動もその後しばらくは、その時期にライブハウスに聴きに来てくれるお客さんの心情も考えて、アコースティックで演奏したり、皆で話し、考えて工夫をしながら続けていました。

そういった難しい時期に思い至ったのは、マイナスなできごとや感情を、プラスに変換してアウトプットしようということでした。

僕らの暮らす身近な世界が、大きな悲しみや不安に包まれていたからこそ、
配慮を忘れずに、けれど悲しみや不安に飲み込まれてそれに身を任せるのではなく、
意志をもって、プラスに変換して表現していこうと考えました。

7年が過ぎた今、あの頃のような極度の不安はもうありませんが、
今もその考えは大切にしており、この日が来ると、改めて思い出します。

その後のザ・クレーターは、毎年名古屋で行われているサーキットイベント「サカエスプリング」に初出演したりなど、積極的に活動を続けました。

しかし、神崎の2度目の脱退が決まり、その後、高木陽次郎が加入するも、ベースの佳奈ちゃんが脱退、そして陽次郎も脱退することになり、ザ・クレーターの活動に再び暗雲が立ち込めました。

そんな時現れたのが、OKDだったのです。

約5年間、活発な音源制作やライブ活動を続けた師匠ノジャー体制のザ・クレーターでしたが、

Bassノジャーが脱退することとなり、新しいメンバーを迎えることになりました。

次にザ・クレーターのベーシストとなったのが、先日の話にも出てきたバンド「Sportsman」(その時にはすでに活動休止になっていた)のチバメグでした。


チバメグはザ・クレーターにとって初の女性メンバーであり、見た目の可愛らしさとは裏腹に、アグレッシブな音とステージアクションが持ち味のベーシストでした。

Sportsmanとは過去に一緒にライブをすることが多かったので、チバメグが曲を知ってくれていたこともあり、馴染むまでにそこまで時間はかかりませんでした。

しかし、チバメグ加入により、活動を続けることはできましたが、バンドの状況は大きくは変わらなかったというのが正直なところでした。

そうこうしているうちに、時は過ぎ、師匠とチバメグが揃って脱退することになってしまいました。


また結成時の下瀬・菊永の2人に戻り、再スタートを切ることになったザ・クレーターでしたが、2人でアコースティックユニット「もず」(名称は公募により決定)を結成して、路上LIVEをしたりしていた時期もありました。

しかし、すぐに、その頃のホームだった三軒茶屋HEAVEN'S DOORのLIVEで見かけたバンド「ameiro」のベース、オクムラカナ(現sugar'N'spice)に出会いました。

連続で女性ベーシストを選んだというのは偶然ではなく、この頃のザ・クレーターは、菊永のボーカルに女性コーラスが合うということで、コーラスのできる女性のメンバーを加えたいという意図があったためでした。

アグレッシブなステージングはチバメグに負けず、元気に歌いながらベースを弾く姿に強く惹かれ、オファーしました。
そして、カナちゃんがザ・クレーター4代目ベーシストとして加入しました。

幾度か3ピースでのライブもしましたが、一度は脱退して大阪に帰っていた神崎聡が再び合流することになり、

ザ・クレーターは再び4人体制になりました。


生粋のリフメーカーである神崎が合流したザ・クレーターは
すぐにバンド初の4つ打ちの曲である「ラブユーベイベー」を制作。

 


2010年10月には、それまで音源化していなかった曲や、「ラブユーベイベー」などを加えたミニアルバム「リハーサル」を発売。

(※現在はライブ会場ザ・クレーター物販でのみ発売中)

「リハーサル」というのは曲名で、当初は文字通りLIVEのリハーサル用の曲、コーラスを含めたすべてのパートや音色を確認できる曲を作ろう、というシモセニアンのアイデアから生まれたコンセプトに沿って作った曲です。

師匠がザ・クレーターのサウンドに取り入れた、世界初の電子楽器「テルミン」をメインに使った楽曲で、

基本的に「A」の1コードのみしか使わない、実験的な曲でした。
(テルミンのサウンドは、最新MV曲「Dance For The Music」など、その後のザ・クレーターの音源でも使われています)

メンバーが揃い、CDをリリースしたザ・クレーターは再びライブ活動を活発化させていきましたが、
年が明けてしばらく経ち、まだ寒かった2011年3月11日、東日本大震災が起きました。

今では全国をツアーするバンドになりましたが、それまでは東京からあまり出てLIVEをすることがなかったザ・クレーター。

師匠ノジャー時代には、現状の打開を目指し「月世界強化月間」というプチツアーを、2005年末〜2006年1月と、2007年2月〜3月の2度おこない、初めて東京を飛び出し、LIVEをしました。

関東近郊ではありましたが、千葉LOOKや、今でもツアーの度にお世話になっているさいたま新都心HEAVEN'S ROCKへも足を伸ばし、LIVEを行いました。

思えば、その頃の経験が、今のツアーの礎にもなっているんだと、改めて気付かされます。

また、2007年前後には、渋谷で毎週土曜にバンドセットでの路上ライブをしていたこともありました。

路上でのパフォーマンスに対して取締りが厳しくなった今からは想像がし難いですが、渋谷西武のA館とB館の間、昔あったセンター街のHMVの裏口から、タワーレコードへ行く道の途中の道端のスペースにドラムセットやアンプもセットし、フルセット、大きい音で路上LIVEをしていました。

今思うと、怖いもん知らずのチャレンジャーだったなーとドキドキします(笑)

ただ、まだザ・クレーターの音楽を聴いたことのない人にとっては、ザ・クレーターは存在しないのと同じなので、聴いてもらいたい、出逢いたい、という想いが強かったです。


今もその気持ちに変わりはないですが。

バンドでする路上LIVEはやはり音量もグルーブも大きく、演奏を始めると、だいたいいつも人がすぐに集まって来ました。
 

そこで知り合ってその後もライブに遊びに来てくれた人もいたし、毎週同じくらいの時間に路上LIVEをする中で、コミュニティのようなものができて、盛り上がった時期もありました。

けれど、苦労してセッティングしても止められてしまい、ほとんど何もできないまま帰ることなども少なからずあり、活動の負担も大きく、ずっと続けることはできませんでした。

しかし、金曜に同じ場所で毎週していた弾き語り路上LIVEは、その後も約5年間続け、多くの経験をすることができました。

路上LIVEの音楽は、求めていない人にとっては雑音でしかない場合もあるので、時に白い目で見られることもあります。

けれど、自分たちの作ってきたひとつひとつの言葉、歌詞と、メロディーに自信を持っていたので、どんな目で見られようと、怖くはありませんでした。

路上LIVEでは、人の優しさに触れる機会も多く、暑い夏にはビールの差し入れをいただいたり、寒い冬には、暖かいホットコーヒーを差し入れていただいたり、時には近くのラーメン屋の食券を買って来てくれた方もいて、びっくりしたこともありました(泣)

 

まるで、通りすがりの人々にお供え物をいただく、「お地蔵さん」ですね(笑)


都会の片隅で、そんな見ず知らずの通りすがりの人の、素のやさしさに触れることができたのも、めったにできない経験でした。

例えば、満員電車の中では密着して物理的に近くにいても、ほとんどが一生言葉を交わすこともない人ばかり。


そんなとき僕は、越えがたい「赤の他人との境界線」を感じます。
 

それは行き交う人々が知らない人ばかりの街の中でも変わりません。
 

路上で音楽というものを演奏することによって、その境界線が変化したり、なくなったりする。
そんなHappyなマジックを起こすことができることがあり、それが路上ライブをする上での一つの喜びとなっていきました。

あと、外国人旅行客によく声かけられて、一緒に写真を撮ることも多かったです。
つまり、世界中に僕の写った写真があるんですね。

そう考えると、ちょっと怖い(笑)

だいたい話しかけてくれた外国人には、Where are you from?と聞いてましたが、国民性がわかって面白い事もありました。

例えば、ドイツ人は凄く真面目で、「これはなんの楽器だ?」とか「弾いてみていいか?」とか、研究熱心な感じ。

フランス人の女性には、キスを求められ、断ったら追いかけ回された事がありました(汗)
あれはマジで怖かった!フランス人女性への、ちょっとしたトラウマです(笑)

通りかかった家族連れのカブレラ(元西武ライオンズのホームラン王)にガン見された事もあります。
でかくて怖かった(汗)

今は亡き、桜塚やっくんのDVDの企画で、突然現れたやっくんと一緒に歌ったこともありました。
※「桜塚ヤンキース 見ないとガッカリだよ! 仏恥義理編 [DVD] 」特典映像に収録
https://amzn.to/2QdtCgt


日刊スポーツに載っていたファンキーモンキーベイビーズの苦労話記事に、なぜか「八王子駅の路上アーティスト」としてデカデカと写真が掲載されていたこともあります(驚)。

(渋谷なのに。。。)

とっ散らかりましたが、本当に多くのことを経験することができました。

最近都内では、路上ライブをしようとすると止められてしまうことが多く、自由に路上ライブをすることは難しくなりましたが、今でもツアー先でやっている路上LIVEは、この時期の経験が基になっています。

これからもチャンスがあれば、街にメロディーと言葉を、投げかけていきたいと思います。

師匠とノジャーが加わった2003年頃からのザ・クレーターがどういう活動をしていたのか、もう15年も前のことで記憶が曖昧になってしまっていたので、その頃出ていたライブハウスのアーカイブを調べてみました。

2003/7/16(水)に、その後しばらくザ・クレーターのホームとなる三軒茶屋HEAVEN’S DOORに初出演、9月から12月まで毎月出演していました。

8月、9月には下北沢SHELTERにも出演、積極的にこの4人でのLIVE経験を積んでいきました。

その頃対バンしたバンドの名前を眺めていると、2003年の7月に初めて出演した三茶HEAVEN'S DOORで対バンしたBO-PEEP(ボーピープ)の名前が目にとまりました。
その後もお互いのイベントに呼び合ったり、仲良くさせてもらっていました。

スリーピースの福岡出身のギャルバンで、ロックだけどポップで迫力があって良いグルーブが出てるバンドなんだけど、MCがユルくてそのギャップに揺さぶられて、今こうして書いていると、俺はしっかりファンでしたね(笑)


サイトを見ると、まだバリバリ頑張ってるみたいなので、久しぶりにライブ観に行きたいなー。
(その後、2018/9/5 下北沢MOSAiC『THIS IS BAND MAGIC!』リリースパーティーにゲスト出演してくれて、ライブを観ることもできました!)

あと仲良くさせてもらっていたのは、Sportsman(スポーツマン)。
こちらも女性ボーカルのバンドですが、その名に反して、メンバーに1人もスポーツが得意そうな人がいない、バンドでした(笑)。
思わず口ずさんでしまうほど曲が超POPで、だけどどこか切ないメロディーがたまらない、こちらも大好きなバンドでした。

ギターの椎名さんとは昨年、茨城の水戸ライトハウスにLIVEに行った際、わざわざ観にきてくれて、10年くらいぶりに再会。
ほんとにびっくりしたし、めちゃくちゃ嬉しかったです。

(2018/10/30 椎名さん番組の制作に携わっているIBS茨城放送のFMラジオ番組にゲスト出演させていただき、そこで再会することができました!)

あと、ボーカルの高原は、とても綺麗な声をしているシンガーなんだけど、ザ・クレーターの曲を至極気に入ってくれていて、前回紹介した「スターマイン」のデモ音源のレコーディングにコーラスで参加してくれたこともありました。

いいバンドだったので、解散してしまったのは惜しいけど、CDも持っているし、心の中でいつまでも生き続ける、大事な仲間のバンドです。
みんな、元気にしてるかなー。

師匠・ノジャー体制のザ・クレーターは2003年〜2008年までの約5年間続きました。
その間のLIVEは、三軒茶屋HEAVEN'S DOORをホームに、

前述の2つのバンドをはじめとした様々なバンドと切磋琢磨しつつ、少しずつ活動の範囲を広げていった時期でした。
けれど、なかなか殻が破れないもどかしさに、もがいていた時期でもありました。

どうしたらより多くの人に聴いてもらえるのか。

世の多くのバンドと同じように、悩みながらもそれを打ち破るべく試行錯誤しながら活動していました。

師匠とノジャーが加わったザ・クレーターは、楽曲の制作とレコーディング、そしてLIVEを積極的にやっていきました。

この4人の体制では、腰を据えて活動ができたこともあり、この頃できた楽曲には、「I LOVE YOU」や「スターマイン」など、今でもザ・クレーターのLIVEの重要な場面で演奏する、バンドの根幹をなす曲が多く生まれました。

 



主に原曲は、下瀬・菊永が二人でスタジオで制作し、良い出来のものをバンドでアレンジする、という形をとっていました。

2018年のはじめにMVを発表した「スターマイン」という曲が生まれたのも、そんな二人の制作スタジオで、
シモセニアンが「忘れてしまうから」というこの曲のテーマでありメッセージでもあるリフレインを思いつき、そこからメロディー、そして全体の歌詞をつけて、できあがりました。


ザ・クレーター「スターマイン」MV

 

 


過程からもわかるように、作った当初はアイデアから生まれた架空の物語だったのですが、自分にとっては、その頃付き合っていた彼女との別れがあり、気づけば実話になっていた(笑)、という不思議な因縁もあった曲です。

他にも2015年に制作した『地下室はパラダイス』というアルバムに収録している「ブラックユーモア」や「E51st」など、メッセージ性の強い楽曲が生まれ、それもザ・クレーターのカラーになっていきました。

その頃、メッセージ性が強くなった一つの要因として、僕の場合は、モバゲーという携帯電話限定(当時)SNSの存在が大きかったです。

モバゲーには、アップロードした音源をストリーミングで聴ける機能があったのですが、そこでザ・クレーターの音源を発表したり、メンバー4人でラジオ番組を録って流したり、発信するメディアとして使っていました。


今や、TwitterやこのFacebookを始めとして、SNSというものは、知らない人がいないくらい当たり前のものとして存在していますが、その頃はまだそういったSNSはミクシィくらいでした(グリーというのもあったなぁ)。

モバゲーは今のTwitterに近い、匿名のSNSだったので、良い意味でも悪い意味でも、他人の本音というか人の本心のようなものに触れる機会が新鮮なメディアでした。

そこで触れた人々の心や出来事にインスパイアされて生まれた曲もありました。

実際に存在している人間でありながら、顔も知らず、電話で話すことも、直接会って話すことも基本的にはない。

しかし、思考は存在し、文字でのやり取りで意思を伝え合うことはできる。

そういう今までは存在しなかった環境の中で生まれたアイデアやメッセージが、あの頃の曲には多分に含まれていると思います。

その後、ザ・クレーターが全国ツアーをできるようになった時に、当時モバゲーで応援してくれていた方に実際にお会いすることができたことがあり、今でもツアーでその土地に行くとLIVEに遊びに来てくれるんですが、本当に素敵な出会いだったなーとつくづく思います。

2003年、リードギタリストとして神崎聡を迎えたザ・クレーターは、
楽曲の制作、アレンジを進め、アンドレ君の協力を得て、レコーディングを進めました。

 

「漣」「4D」「僕とロック」が収録されたデモ音源のレコーディングは、
確か吉祥寺あたりのスタジオで、歌以外はほぼ1発録りでやったと思います。
(歌はアンドレ君の実家で、確か布団で防音しながら録ったなぁw)
 

朧げながらその時の光景を覚えています。

 

さて、リードギタリストの神崎聡、彼はジミヘンと同じサウスポーでした。

B型、神戸出身の関西人。
 

生み出すリフが特徴的なギタリストでしたが、
その年、自分のバンドを立ち上げることになり、一度脱退することになりました。

 

一難去って、また一難。
 

ザ・クレーターは、メンバーが安定しない中、活動を続けていました。

 

自分たちでも自信の持てる楽曲が出来始めた矢先のことだったので残念ではあったけど、
僕は、ザ・クレーターを始める前には、
前のバンドのメンバーが全員脱退し、一人で曲を書いていた時代もあったし、
下瀬くんと出会ってやっと進み始めた船、
こんなところで立ち止まっている場合ではない、という想いだった。

 

その後、ザ・クレーターは幸運にも、しばらく運命を共にするギタリスト、
元8gallon beersの宮本さん、通称「師匠」をリードギタリストとして迎えることになりました。

 

師匠は当時、よく練習をしていたスタジオの店長で、
ギタリストということは話の中で聞いていたので、
神崎が抜けたタイミングでスタジオに誘ったのがきっかけで、
一緒にやることになりました。

いつも何かをたくらんでいて、話が凄く面白い人だったし、
一緒にバンドをできることがとても嬉しかった。

 

また同じ2003年には、ベーシストも交代。
 

憲太くんが脱退することなり、
知人の紹介で出会った、元Suger coated bombsの野澤幸生、
「ノジャー」が加入することになりました。

ノジャーはミュージックマンのスティングレイをこよなく愛し、指弾きを好むベーシストでした。
ステージでベースを弾くアクションが個性的で、LIVEでとても映えるベーシストだったなぁ。


人柄はとても温厚で、ほんわかした性格だったので、他のメンバー同士がちょっと険悪なムードになったりすると、
まあまあ、と止めてくれる、なんとも気の優しい男でした。

 

振り返ると、メンバーの入れ替わりはあったものの、
ザ・クレーターは人との出会いに関してはとても恵まれてきたので、
16周年を迎えることができたことも、出会ってきた一人一人のお陰なんだなーと、

改めて思います。