怒りは憎しみとは違う。
怒りが醸造されると憎しみに変わるようなイメージか。
その過程には理性が存在し、怒りという感情はアレンジされ、言葉や行動として表出する。
(不幸なことにその矛先が怒りの発生契機となった事象以外に向けられることが多々あり、最悪な場合、自殺や無差別殺人事件などとなってしまうのか)
怒りが憎しみに変わる前に発散しようとする場合がある。
そうすることが出来た時、多くの場合大事には至らないのかもしれない。
怒りの表出を外部からの圧力によって押さえ込まれるケースもある。
そういった場合、怒りは増幅され、強い憎しみに変わるのかもしれない。
外的、内的にかかわらず、何らかの要因によって醸造を余儀なくされる場合、猶予があり、つまりそこにはアレンジの自由がある。その期間に存在しうる理性にこそ、その人間性や価値観が反映されると思われる。
惰性に任せればそれは怒りを増幅させた憎しみへと変わるが、アレンジによってはまったく逆のポジティブなパワーへ変換することが可能だと考える。
※今回は自分を強く捉えた「怒り」という感情を中心に考えてみたが、「悲しみ」などその他の感情に対しても同じ事が言えるかもしれない。
安易かもしれないが、そういったポジティブな変換を可能とすべく働きかけることが出来るものの1つが、音楽やそれを共有することのデキるLIVEなのかもしれないと思う。
少なくとも自分のそういったネガティブな感情はそれらに救われることが多かった。
(勿論映画やスポーツ、その他同様と思われるたくさんの表現がある)
だからこそ、これからもそんな音楽を楽しんで行きたいし作って行きたいし歌って行きたいし、その輪を広げて行きたいと思う今日この頃です。
今年は僕らの暮らすこの国を大きな災害が襲い、今もなお多くの人が苦しんでいる。
直接の被害を受けなかったとしても、生きていれば多くの悲しみややり場のない怒りもあるだろう。
その一つ一つを丁寧に、ポジティブなパワーに変換して行こうと思う。
それは決して辛い作業などではない。
喜びである。