「怒り」について | グラサン日記

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ロックバンド「ザ・クレーター」のボーカルギター菊永のブログ

思えば「怒り」という感情について考える事の多い人生だった。

そして「怒り」は何も自分の望んでいるものを生み出さないと信じて疑わなかった今までは。



きっかけは父親だったと思う。

誤解のないよう説明しておくと、不器用ではあるが誰よりも優しい父親を俺はとても尊敬している。



が、幼少の自分にとって、優しい父親がたまに表にする怒りの感情がとても疑問だった。

その怒りが自分に向けられた時、自分が悪いと理解できることも多々あった。

が、特に自分以外にそれが向けられた時、腹を立てても仕方がないことに腹を立てていることが幼心に疑問だった。

それを見ていて、いつしか自分が怒りの感情を抱く事自体に抵抗を持つようになった。

恥だとさえ思っていたかもしれない。

だから子供時代、喧嘩をしたことが殆ど無かった。

それもなんか寂しい話だけどね。

幸いいじめられることもなかったが、友達が多いわけでもなく、色んなグループの間をフラフラして、属する事がなかった。

それで喧嘩でも強けりゃ一匹狼みたいでカッコいいが、実に冷めた少年だった。



感情を内に込めることが多かったから、学校の先生にはよく誤解された。

そして濡れ衣を着せられたりした。

けど、至って冷静に説明しても、とうとう聞く耳を持とうとしなかった先生に対して、怒ることなく、心のどこかでバカにしていた。

しかもそれは幾度となく繰り返された。



怒らない人間に対して、時に人は軽蔑をもって接してくる。

それを心の中で逆に軽蔑していた。

冷たい。



何が言いたいかというと、最近怒りを感じる出来事が多く、とてもそれに疲弊した。

本当に「怒り」は自分に必要のない感情なのか、とふと考えたから振り返ってみた。



価値観を押し付け合い、たくさんの命を奪い合い、争うアメリカとイスラムを理解できず、なんてバカバカしい事か、とても理性的な人間同士のする事ではない、と思っていた。

遠くユーラシア大陸のほとりの島で。



が、自分にとっては言われのない軽蔑に連続して晒された今、心が怒らずにはいられなかった。

抑えようとしても抑えるにも限度があり、素直に表現出来ないもんだから、ただただ疲れるだけだった。



そして今考える。



本能的な感情が時に残酷であるならば、残酷でないのは理性か。

人間は理性と本能が同居している。

バランスは人それぞれだし、シチュエーションによっても変わるかもしれない。

ただそこには理性と本能が間違いなく共存すると思う。



俺は理性100%の人間を目指しているのか。

今は違うと思う。