人生と旅・読書 村上春樹感 アメリカ放浪記 -4ページ目

人生と旅・読書 村上春樹感 アメリカ放浪記

人生と読書は切り離せない、体と心のような関係です。人生は旅であり、また、読書も旅です。徒然なるままに書いていきます。コメントお待ちしています。

 

原題 KRAMER VS.KRAMER

 7歳の息子を残して妻が出ていき、夫が仕事をしながらの子育て奮闘記の物語である。父親役をダスティ・ホフマン、母親役をメリル・ストリープが演じ、それぞれ、主演男優賞と助演女優賞のアカデミー賞を受賞した名作である。

 

 人が現在の家庭環境を捨て新たな出発を願うのは、環境を変えることによる、自己防衛のためと言ったら逆説的に聞こえるであろうか。現在の自分から脱出すべく、人は行動し始める。そこに、家族に対する不満とか、仕事に対する不服とか、様々な要因はあるかもしれないが、根元の原因は、自分に対する不平不満なのである。

 

 自己同一性を取り戻すために、人は旅に出る。自己欺瞞を払拭するために、新しい行動に出る。「私の人生は、このままではいけない。」

その気持ちが抑えきれなくなり、あるいは、周囲から押し出されるように感じ、自己改革が始まるのである。

 

 イノベーション。最近よく聞く言葉であるが、自己イノベーションというものであろう。ただし、人の場合は、自己再生といったほうが適切かもしれない。実は、改革しているようで、再生しているのである。

 

 自己再生。人生は山あり谷あり。右往左往する中で、人は、忘れていた自己を発見し、見つめる機会を得る。行動を起こすのは腐らないための手段であり、自己を現状から脱却し発展させるためであり、自己再生の時は、誰にも訪れる。その時、動くか動かないかは、その人の価値観であり、生き方になる。

 

 この映画で、妻が家出をし、残された夫は、一人息子の面倒を見るうちに、数年かけた仕事の成果により手中に収めた会社の出世ポストを失った。妻は一人で仕事を持ち生活する中で、自己の意識を取り戻し、夫のもとに残してきた一人息子への愛に改めて気付く。

 

 裁判で、親権を奪われた父親は、これからの生活をどのように過ごしていくのか。裁判で息子を手に入れ、母親として願いは叶うが、夫への深い憎しみを持たない妻は、子供を迎えに来たものの、家から連れ出すことができずに、今後、どのような生活を送るのか。

 

 それは、たぶん、夫婦の問題になり、裁判では解決できないことであり、物語としては、蛇足になるのかもしれない。言えることは、自己を進化させるとき、周囲との軋轢があり、乗り越えなければならない壁が現れ、解決のために代償を伴うということである。

 

その後

アメリカという国の結婚基準はもちろん恋愛だが、一つの大きな条件があることを知った。

それは、個人の事由である。お互いに自由を守ることが、結婚継続への必須条件なのである。

自由を感じれなくなったとき、結婚生活は終わるという。

日本では、まだまだ、そんな離婚基準に到達していない。

 

自由と結婚とは、そもそも両立するのであろうか。

自由を求めるなら、結婚は難しいと感じてしまうのは、私が、日本人のせいか。

仕事と家庭は両立しない。単純にそう思う。

女の人は、どう感じているのだろうか。

仕事と子育ては、大変だろう。

二世代の家族なら、子育ては軽減されるが。

アメリカのような核家族では、大変に違いない。

 

だから、ベビーシッターや、家政婦が必要となるはずである。

夫も、家事をする。仕事も休んで、育児をする。

そうすると、今度は、自由とは何かということになる。

自分の時間が削られるわけだから、自由はなくなっていく。

つまり、結婚は破綻していくのである。

 

結婚に、自由は禁物である。

少なくとも、子育てには、大敵だろう。

だから、離婚が増え、50%にもなってしまう。

それでも、アメリカは、崩壊していない。

人類は、家族のだんらんとは、現代社会において、絵空事になってきている。

 

しかしながら、このままで、人類は良い方向へ進むのであろうか。

家族の絆は弱くなり、ゲームやパソコンやスマホに向かう時間が多くなる一方である。

人と人のかかわりより、画面とのかかわりが多くなる現代人に、心の生育は必要ないのであろうか。

心の生育とは、人と人の交わりから生じてくる。

 

「うざい」「きもい」の口癖の若者に、自由を求める気持ちはあるが、人との会話を求める心は希薄である。

自己主張は強くなり、相手の気持ちとか意志に無関心な若者が増えているのを危惧している。

スマホを手に入れた我々は、夢のような時代に生きているが、これが杞憂であることを願っている。

 

今、私たちは、自由の大きな時代に存在し、ある条件は必要だが、何でも手に入る、簡単な世の中になってきている。

不平や不満も聞いてもらえると同時に、国のトップを簡単に軽口でこき下ろしても、恥ない時代である。

愛国心や、忠誠心は、個人からは乖離した時代でもある。

国民主権と衆愚政治とは、違う。

人を敬う気持ちは、まず、家庭から起きるのではないか。

それから、学校での先生と生徒の関係においてもしかり。

 

日本には、もはや、年上の人を敬うとか、師に尊敬の念を抱くとか、死語になりつつある。

時代は、あまりにも急に動いて、完全に固定観念が否定された大戦後、自由競争が時代の代名詞となった。

素晴らしいことであるが、ともすると、弱肉強食の経済感覚が蔓延して、高度成長を成し遂げた。

それが、家庭にまで及んだ時、家庭は崩壊していったのである。

 

道は見えなく霞んで、霧の中で前進していく現在の結婚は、どちらに向かおうとしているのであろうか。

私が求めるものは、自由なき自由なのかもしれない。

西欧諸国の人々を見て、楽しい人生と感じていた、若かった時代は過ぎた。

それが幻想だと知ったとき、日本人に合った、家庭生活が必要だと改めて感じている。