イエスの最期 | 人生と旅・読書 村上春樹感 アメリカ放浪記

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人生と読書は切り離せない、体と心のような関係です。人生は旅であり、また、読書も旅です。徒然なるままに書いていきます。コメントお待ちしています。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 (マタイ27,46)

深い言葉である。
神の一人子として歩んできて、何が納得いかないのか、というべきレベルではない。

それは、神に裏切られたのではない。そう解釈しては、いけない。

イエスは、神の御心をすべて知っていて、預言通りに十字架に就いたのであるから。
 
この言葉の一端でも理解しようとしたならば、そのイエスの足跡をたどらなければ、わからない。私たちには、イエスとともに信仰を実践して、その幾分かを知り得るだけであろう。
 
次の47に、「あれは、エリヤを呼んでいるのだ。」とあるが、理屈からすれば、その通りである。ミッションコンプリートしたのであるから、エリヤに早く迎えに来なさいということであろう。理屈では、まったくそうであるのだが、それでは、この情景があまりにも軽くなってしまう。

 
たとえば、イスカリオテのユダが、イエスを裏切るのは、神の計画であるから、罪はないというのは、早計である。イエスをして、「確かに、人の子は自分に書いてある通りに去っていく。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は、生まれなかった方が、その人のために良かったであろう。(マタイ26,24 )と言わしめている。

 
神の計画通りに役割分担されているとはいえ、悪は罪になるのである。それは、ユダヤ人を虐殺したヒットラーも同様であり、神は、悪人をも用いて、御業をなしていくのである。この、教訓は、大きい。神に悪をなすと選ばれたら、地獄行きは避けようがない。
 
 
では、逆に考えればどうであろうか。もし、神に、義をなせと選ばれたなら、天国行きは避けられないのである。間違いなく、神のみ旨をなし、神の国に入るのである。イエスと同様にである。神のご計画に、狂いはない。残るは、本人の自覚だけであろう。
 
 
自覚とは、神への忠誠心であり、勇気であり、信仰である。
信仰が、必要である。意志の弱い人間は、いや、普通の人間は、そうである。
 
 
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と言われた。それは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27,46)

 
この解釈で、私は、信仰的に納得する。信仰と科学、あるいは理屈は、必ずしも、同等ではない。この言葉は、イエスの十字架の意味を、より深く、我々に考えさせるからであり、より強く、我々の罪深さを感じさせるからである。このクライマックスは、そうでなくてはならない。神の予定だからと、軽く過ぎ去れるものではないのである。

 
そこに至る、イエスの十字架の道を知るときに、涙を禁じえない自分がいることを、ぜひ、確認してほしい。そして、出来るならば、信仰に覚醒してほしいものである。それは、クリスチャンになることと同意義ではない。

 
信仰とは、イエスを知ることから始まり、イエスとともに歩み、イエスとともに死ぬことである。

 

私たちは、人生において、真実を求め、真理を追究していく。そして、出来るならば、自分の人生に、役に立てたいと願う。人生における、様々な、困難に出逢い、苦難を経験するときに、それらを乗り越えることのできる、真理が欲しいからである。

 

それは、物質的なものや、お金ではありえない。なぜなら、物質やお金は、あくまでも、相対的なものだからである。であるから、それは、精神的なもの、あるいは、霊的なものしか、絶対的なものとして満たさないのである。

 

絶対的なもの。そのありかを、孔子は儒学として伝え、釈迦は仏教として残し、イエスはキリスト教として弟子に託した。そして、そのイエスのクライマックスのシーンが、これである。

 

イエスを見殺しにしたのはなぜか。何ゆえ神は、万軍を送り、イエスを助けに来られなかったのか。それは、人類を救うためだったのである。イエスは、人類を救う、神の決意の燔祭であった。神は自ら、自分に誓い、人類を救うために、イエスを十字架につけるのを黙認したのである。

 

イエスの伝道対象者は、異邦人や取税人など、社会の低層にいる、当時の罪人と呼ばれる忌み嫌われている人々であった。当時のイスラエルの社会の神に対する既成の信仰観を、根底から覆そうとした宗教革命であったのである。

 

そうであるから、当時の権力者であった、パリサイ人や律法学者に、歓迎されるわけはない。紀元前八百年前のイザヤの預言通りにイエスは十字架の道をたどり、紀元前千年前の詩篇に書いてある通りの最期を迎えた。その言葉が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。であったのである。

 

イエスの十字架は、二千年前の話である。伝説である。しかしながら、我々の心に、そのイエスの生涯を知るときに、湧いてくる心情は、彼岸の火事ではない。神の子として生まれ、人生を全うできずに、人類を救うために、十字架につく。その、御心を思うと、頬を伝わる涙に気づく。

 

神が、一人子を捧げて、人類を救おうとされた、神自身の誓いを知るときに、自己の罪に気づく。人類の歴史が、神への親不孝の歴史であると気づく。それほどまでに、我々人類は、大きな過ちを犯してきたのである。

 

 

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