戦艦武蔵の建造と戦艦大和の乗組員で沖縄特攻で生き残った乗組員のオーラルヒストリーが印象的だった『歴史群像 2024年 4月号 [雑誌]』の感想
歴史群像 2024年4月号[雑誌] Amazon
内容やレビュー
アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンがイギリスとのアメリカ独立戦争で指揮官としてどのように戦ったのかということや、フランスのド・ゴールがいかにして20世紀のフランスの巨人となったのか、戦後の米中の状況に左右されながらどう最新鋭の空軍に整備していくかの苦闘する台湾空軍特集なども面白かったのですが、特に印象に残ったの二つについて
実録 戦艦武蔵建造
帝国海軍は、日露戦争の日本海海戦で砲の威力の大切さを知り、大艦巨砲主義を指向することになり、昭和になり対米戦争が迫る中、対米戦争を優位に進めるために米軍がパナマ運河航行が事実上不可能になるようなサイズの砲門をする超ド級戦艦を造ることを決めます。それが大和と武蔵になりますが、起工から竣工まで約4年半に及ぶもので、その間にこれら新造軍艦の存在を他国に知られないようにすることも必要でした。
今回の特集はその「武蔵」をいかに他国に知られずに建造するかという話です。「大和」は海軍の呉工廠で建造ですが、「武蔵」は、民間の三菱重工長崎造船所で起工し、2年半の間そこで各種工事をし、進水後に海軍の呉工廠に行き、完成させるものでした。
名称についても、秘匿名称の「第八〇〇番船」という名前になります。建造時も大型貨客船(のちの空母大鷹)を浮かべて見えないようにし、対岸にあるグラバー邸などを買い取り、米英領事館の前には三階建ての市営倉庫を造らせたり、航行する船に乗っているものたちには武蔵側に顔を向けないように指示するなどして秘匿につとめたそうです。日本の事を探っていたアメリカ側もこの建造については情報をつかめず、終戦後にアメリカの海軍技術者が「大和」「武蔵」の全貌を知り、驚嘆したということで機密保持に見事に成功したといえる特集でした。
ただ、それゆえに、「大和」も「武蔵」もそれほど活躍することができず、「大和」は沖縄特攻で浮き砲台のような役割で米軍機の的にされてしまう扱いなどは、機密保持建造をしたのにも関わらずもったいなすぎるものです。
戦艦『大和』で沖縄へ向かった最後の生き残り 疇地哲
戦争で生き残られた方にインタビューする大変貴重なオーラルヒストリーシリーズ。今回は沖縄特攻で沈んだ戦艦『大和』のその生き残りの疇地哲さんでした。
疇地哲さんが砲術学校を首席卒業したときに学校長から拝領した時計は、2時23分で止まっています。それは戦艦『大和』が沈没した1945(昭和20)年4月7日の午後2時23分のことです。
小学生時代から海軍にあこがれ、1944(昭和19)年に、横須賀海軍砲術学校の普通科砲術生を首席で卒業。『大和』を配属第一希望にし、完成したばかりの『大和』に乗り組みます。特別な艦なだけに、寝台はベッドにトイレは水洗でその特別さは戦後に知ったそうです。
初陣のマリアナ沖海戦、戦艦『武蔵』を失ったレイテ沖海戦などにも参戦し、敗色濃厚となる中、1945(昭和20)年4月5日、沖縄に海上特攻して中城湾で浮き砲台になることを命じられます。黒板には「総員、死二方用意」と書かれていたそうです。
米軍機は左舷側を攻撃、傾斜復旧が出来なくなった中、疇地哲さんは命令で海に飛び込んで脱出します。海面でも米軍機の容赦ない機銃掃射がありましたが、最後まで「死ぬとは思わず、米軍に負けてなるものか、必ず生き返るぞ」と生き残られました。このとき戦艦『大和』の乗組員3332名中で生き残ったのはわずか276名と9割以上の戦死者を出しています。
佐世保に帰投し、そこである島の倉庫に1週間隔離され、4月15日に呉に戻る際には『大和』のことはしゃべるなと言われたそうで、海軍としては戦艦『大和』の沈没の事実を少しでも広めたくはない意向が感じ取れます。しかし、呉の下宿に戻ると、「ほんものの疇地さんか⁉」「大和は沈んで全員戦死したと聞いたけど」と驚かれたそうで、隠したところでというところなんだということも分かります。
戦艦『武蔵』の機密保持での建造の特集や戦艦『大和』の最後の生き残りの方のインタビューを読むと、せっかくの戦艦なのに、海軍がその性能を生かしきれない状況に徒花のように感じてしまって残念です。もったいない事の分かる特集でした。
『歴史群像 令和6年4月号』
発 行:株式会社ワン・パブリッシング
価 格:1,100円
発 売:2024年3月6日