坂東平野で繰り広げられる土地開発と土地を巡り武装するものたちが武士へとつながる描かれ方がポイント
レビュー
今では、武士の起こりが地方から武装した人たちからという説明が必ずしもそうではなく、京で一つの技術として発達して武士となるという説が有力ですが、80年代のこの作品では、地方からという描かれ方になっています。
今回の主人公は、タイトル通り、平将門です。
(『まんが日本史』より、平将門と坂東の地)
9世紀ころ、貧富の差が広がり、貧しい人たちが死体を河原や道端に捨てるようなことが起こり、都の羅生門にも貧しさゆえに宗祇が出来なくて死体を捨てるような事態が発生し、有名な今昔物語に収められた羅生門の盗賊の話が引き合いに出されて話が始まります。
一方の地方、特に原野広がる坂東の下総国(今の千葉県&茨城県)では、土地を開墾して力をつける豪族が現れ、その一人が今回の主役の平将門です。
皇室では、親王らに源・平姓を与えて地方を治めさせます。平氏は桓武天皇の子の高望王がその姓を賜ったことから始まります。高持王は将門の祖父にあたる人物です。
935年、父の平良将が下総で広大な土地を得て、勢力を拡大しましたが、父が亡くなると、叔父の平国香が若き将門からその土地を奪おうと、源護とともに将門を攻めることを決めます。それを知った将門が先制攻撃した結果、平国香は自害、源護は3人の子を討たれ、本人は京に逃亡し、もう一人の叔父の良正も打ち破ります。
叔父の平良正と国香の子の貞盛は、平家一族の長の良兼を入れて、将門を討伐を
(『まんが日本史』より平良兼・良正、貞盛)
平将門は3人を攻め、国府に追い詰めたのちに、逃がして許しました。
その頃、京に逃げていた源護が朝廷に将門の所業、反乱をしようとしていると訴え出て、その知らせを受けた将門は上京して、以前京で仕えていた摂政の藤原忠平に申し開きをします。
・朝廷に弓退く気はないこと
・あくまでも平家一族の私的な争いであること
(『まんが日本史』より摂政、藤原忠平に申し開きをする平将門)
その結果、937年に罪をゆるされて下総国に戻ってきます。
そこで平良兼・貞盛と再び戦うこととなり、一度敗れるも勝利して、良兼は死に、貞盛は京へ逃亡して、将門は平家一族の長となります。
その将門の下に、興世王や藤原玄明らが国司との対立などから逃れて匿いますが、常陸国の国司藤原維幾から藤原玄明を差し出す文が届きますが、それを断ってついに常陸国府を攻略してしまいます。この常陸国府の下にはあの平貞盛がいました。
ここで興世王から、国府を落としたのは調停への反逆だから、坂東八州の国府を落としてしまえと進言し、将門も一気に、下野国府・上野国府を落とします。
(『まんが日本史』より、平将門進撃図とミカドの位を神託で授かる将門)
ここで、平将門は八幡神の神託によりミカドの位を授かり、”新皇”を名乗ります。
(『まんが日本史』より、皆の前で新皇宣言する将門とその王城)
将門は坂東に自分たちの国をつくることを宣言し、ミカドとなったので、石井の王城を建て、京の朝廷と同じく文武百官の制を定めます。
時をほぼ同じくして西国の瀬戸内海でも藤原純友が海賊として反乱を起こします。
(『まんが日本史』より、藤原純友)
海賊を討伐を命じられた藤原純友ですが、海賊となって朝廷の船を襲います。
藤原忠平を首班とする朝廷では、東西両側の反乱に挟撃されるのではないかと恐れます。逃げ出す民も出る始末でした。藤原忠平は将門の乱は、将門に菅原道真の怨霊が憑いているとして、寺社仏閣にその怨霊を払うための祈祷を依頼することを決めるとともに、将門・純友を討伐の追捕使を選んで派遣します。
将門は、5,000の兵を持っていましたが、兵士も田畑を耕しながらなので1000人足らずを残して、それぞれの田畑の場所に帰しました。
ここで動いたのが、あの父、国香を殺された平貞盛でした。彼に藤原秀郷が味方について4,500の兵で1,000人足らずの平将門を攻めることを決めます。
940(天慶3)年2月、平将門は下野国で平貞盛・藤原秀郷に敗れ、2月14日の戦いで矢が眉間にあたって絶命します。
平将門が”新皇”と名乗って50数日での死でした。
一方の藤原純友も翌941(天慶4)年に、小野好古の軍に敗れて殺害されます。
(『まんが日本史』より、承平・天慶の乱の二人)
同時期に東西で起こったこの反乱を承平・天慶の乱と言います。
番組では、単なる反乱ではなく、武士というものが起こってくる前触れと評価しています。
平将門の乱の評価
親子パートで印象的なのは、この平将門の乱についての評価です。
平将門の乱については、土地をめぐる一族の争いが拡大して朝廷への反乱となったわけですが、その背景として、地方の事情を無視した貴族政治への反抗があること
もし、平将門が勝っていたら?という質問に対して、勝っていたら京を中心とした西側と坂東の東側で日本が分かれていたかもという答えも印象的でした。
同時代頃の世界史
同時代の中国は、唐が滅んだあとの五代十国時代に入っているとのこと
わずか50年の間に5つの王朝ができ、周辺にも10の王朝ができる分立時代です。
(『まんが日本史』より、10世紀前半の中国)
イスラム世界では、ファーティマ朝のカイロにアズハル大学が建てられ、今日に至るまで回教文化の中心なんだそうです。
(『まんが日本史』より、ファーティマ朝)