11月12日の大河ドラマ『どうする家康』の関ヶ原の戦いについて、これを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』で見ていきたいと思います。
関ヶ原はあっさりと、論功行賞や処罰については混乱も
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の関ヶ原の戦い布陣(C)NHK)
会津征伐と三成の挙兵から関ヶ原直前まで
『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』での関ヶ原の戦いとその戦後処理についてですが、関ヶ原の戦いはあっさりと終わります。理由としては大久保忠教自身は、徳川秀忠軍におり、関ヶ原の戦いには参戦できなかったことがあるんだと思います。
関ヶ原の戦いについて
1600(慶長5)年9月14日、家康軍が青野が原へ押し寄せ、15日に合戦をする。
西軍は金吾中納言(小早川秀秋)の裏切りで切り崩され、大谷吉継をはじめほとんどが追いつかれて殺された。佐和山城も落城し、石田三成の妻や子、一族も一人残らず焼き殺された。
戦後処理など
石田三成、安国寺恵瓊、小西行長の三人は生け捕られます。三人は京、大坂、堺を引き回されてから京の三条河原で首を刎ねられて処刑されます。その首は三条の橋詰にかけてさらされます。
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の石田三成と小西行長の処分(C)NHK)
長束正家やその他諸大名の首を、百姓たちがそこここで斬ってもってきます。
宇喜多中納言秀家殿も生け捕られて、親子三人、八丈が島へ流されます。
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の宇喜多秀家の処分(C)NHK)
増田長盛は命を助けられ、岩槻城に預けられた。
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の毛利輝元の処分(C)NHK)
安芸国の毛利輝元の家老吉川広家が夜に内通してきて、15日に裏切って参戦しなかったので、命を助けるだけでなく、主人の国はまったくそのままに、お慈悲深い方なので、毛利には周防と長門両国を下されます。
家康がとても慈悲深く、周防・長門を与えたと表現していますが、実際には大減封にあっているので、大久保忠教がお慈悲深いと表現されるのは、違和感を感じてしまいます。
島津義弘は薩摩・日向の二国が本領だったので、それが与えられます。
丹羽長重は命を許され、そののち召し出されて、すこしの知行が与えられることになります。
●嘆き!立花宗茂の扱い
立花左近宗茂は膳所城を攻めて敵対したものだったが、命を助け出されるだけでなく、召し出して多くの知行を下さって、「お役に立つ者」とまでお言葉があった。
これに対して大久保忠教は、「我々凡人には理解できない。多くのご用に立った人々より、立花に多くの知行を下されたのは敵対したごほうびであろうか。こんなときには敵対しても知行がとれるのか」との言葉を残しています。
実際に立花宗茂は関ヶ原の戦いの後は改易されているので、関ヶ原の論功行賞で知行がもらえたわけではなく、浪人生活を続ける中で、本多忠勝の推挙を経て、徳川秀忠の御伽衆になることで大名に復帰できたので、大久保忠教の思い出としては、後年のできごともごっちゃになってしまっているようです。
ただ、徳川家に忠節を尽くしてきた三河以来の功臣の大久保家に対する冷遇と、関ヶ原で改易されるものちにその旧領を取り戻した大名となる立花宗茂の厚遇ぶりとの比較に大いに嘆きと怒りを感じているのがこの部分に表されていると思われます。
●池田輝政と福島正則の評価
今度の合戦は池田三左衛門尉輝政と福島大夫正則の二人が首を横に振ったら、関ヶ原まで出ることはできなかったけれども、池田輝政は家康にとって婿殿にあたるので味方しないではいられなかった。福島正則はさらりと思い切って味方をした。清州城をあけわたすことはたぐいまれなる忠節であった。
(大久保家の系図 筆者作成)
『三河物語』ってどんな書物?