大河ドラマ『どうする家康』での石川数正の出奔と天正大地震について『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』で見ていきます。
和戦両様の徳川家中で大事件
石川数正出奔と天正大地震
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の天正大地震(C)NHK)
防備体制を高める中での大事件
重臣の石川数正の出奔
11月13日、重臣の石川数正が女房衆と共に、秀吉の許に出奔。
同日深夜(亥刻)には松平家忠の耳にも入り、即座に岡崎城へいち早く出仕して、日記にもそのことを自画自賛している。
11月16日、急遽岡崎城に来た家康から、その忠勤が認められ褒められる。
18日、家忠は岡崎城へ普請のために出向く。秀吉軍に備えての岡崎城の補修。
23日、家忠は女どもを遠江国に疎開させる準備のために深溝城に戻り、26日にはその女どもを出発させた。
28日、秀吉の意を受けた織田長益・滝川雄利・土方雄久が岡崎城に来て、講和を勧めたが、まとまらなかった。
天正大地震の発生
11月29日、天正大地震が発生。諸国では山崩や地割れ起き、12月下旬で連日の余震が続いており、家忠日記にもそのことが記録されている。
家康は三河国境付近の防備を固めるために、東部城の修築を決定。
12月2日、松平家忠にその城普請命令が伝えられ、7日から家康直臣が監督の下、城普請。
天正大地震の余震が続く中、連日普請が行われて25日に年内の普請が終了して、松平家忠は深溝城に戻った。
1586(天正14)年1月3日、東部城普請を再開。普請は二月中も続き、月末に完了。
北条氏との同盟関係の強化
大河では描かれていませんが、秀吉との戦に備えて、東隣の北条氏との同盟強化に取り組む家康についても記録されています。
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の北条氏政(C)NHK)
2月25日、東部城普請中であった松平家忠は、浜松城に出仕し、26日に北条氏政と対面するために駿河へ向かう家康を見送った。
家康と北条氏政の対面は、3月9日に北条領の伊豆国三島城で、11日に徳川領の駿河国沼津城にて行われた。
3月27日、家康が北条氏政との対面を終えて浜松城に帰ったとのことで、松平家忠は浜松城に出仕した。日記にはそとのときに取交された進上品のことが記録されている。
家康→氏政
虎皮、豹皮・猩々緋・南蛮筒などの輸入品が主なモノで、上方では盛んに贈答されている輸入品を関東では珍しいので、それを北条氏政に贈ることで自らの優位性を示そうとしたと考えられる。
徳川北条同盟の強化を図った。
秀吉に対して和戦両様で臨む家康
国内の防備体制を整えるために家臣らは城普請などに追われ続けます。
そんな中での石川数正の出奔での混乱、そして天正大地震とで、復興対策も必要で家臣らも大変だったことが、この松平家忠日記からも推測できます。
(徳川家康と松平家忠の系図 著者作成)
NHK大河ドラマ『どうする家康』の石川数正の出奔
同じく天正大地震について
『松平家忠日記を読む』の紹介ブログ記事