石川数正が出奔した8月27日の大河ドラマ『どうする家康』、徳川家中の反応を信濃国小諸城の大久保忠世について、弟の大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』から見ていきます。
石川数正、出奔!?
激震走る徳川家中
(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)
信濃国・甲斐国はどうなる!?
『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』の著者である大久保彦左衛門忠教は、兄の大久保忠世が信濃総奉行として在番する小諸城にその配下として入っており、そこで石川数正の出奔を知ることになります。
状況について
軽井沢の近くの小諸市にあるのが小諸城で北にはあの真田昌幸の上田城があります。
天正壬午の乱で徳川に臣従しましたが、その後は徳川を裏切り、そして第一次上田城合戦で、攻めてきた徳川軍をさんざんに打ち破っている危険な勢力が真田です。
三河物語の記述より見る激震ぶり
1585(天正13)年の暮れ、石川伯耆守数正が裏切って妻子を引き連れて岡崎城より出奔。
徳川家康は岡崎城にお移りになり、大久保忠世にも早く小諸城から岡崎城に戻るように毎日何度も飛脚が送られていた。
大久保忠世は、以下の理由ですぐに小諸城を離れることができないと答えます。
・急いで岡崎にのぼるとなると、家康本領で乱が発生して逃げ落ちたとされて、信濃国で一揆がおきて真田がすぐによせて小諸城をとるだろう。
・越後の上杉景勝も信玄の子の信親殿親子を甲州に入れるうわさも流れており、そんなことになったら甲斐国も乱れてしまうから離れられないと戻れない理由を伝えます。
しかし、家康からはそれでも戻るようにとの飛脚が送られ、大久保忠世は一族の誰かを残して岡崎に向かうことにして、弟の大久保忠教に知行を与えるから小諸城に残るように命じます。
命じられた大久保忠教は、他のものたちと同じく、石川数正の近くに自分たちの母や妻などがおり、裏切った石川数正の人質にされてしまったかどうかわからない。石川伯耆守が裏切ったからには、きっとなみたいていのことではない。ここに残りたくない。知行をもらえるからと言って残りたくはない。国に戻りたいと答えます。
大久保忠世も、弟の忠教の言葉をそのとおりだとし、知行を与えるからではなく、自分が家康の許に戻るために"命を捨てて"小諸に残るように大久保忠教に命じると、大久保忠教も理屈抜きで命を捨ててというならと承知します。大久保忠世は岡崎城に戻ります。
大久保忠教は1585(天正13)年8月から1586(天正14)年正月まで小諸城に留まっていたが、石川伯耆守はさしたる工作もすることなく引き上げていった。
最終的には何もなく終わることになりましたが、石川数正の裏切りについてはきっと並大抵のことではないという評価や、国許に残してきた母・妻などの家族がもしかしたら石川数正が出奔のときに人質としてとってしまっているかもしれないという不安が前線の小諸城において、皆の間でひろまっていることが分かります。
(大久保家の家系図 筆者作成)
大河ドラマ『どうする家康』の石川数正の出奔について
英雄たちの選択での石川数正の出奔について