#381 TVメモ『どうした?石川数正~なぜ家康の忠臣は出奔したのか~』 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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 大河『どうする家康』で徳川家を出奔し秀吉の臣下となった石川数正の2023年8月30日放送の『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』での感想

徳川家のため?徳川を見限ったから?

(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)

石川数正の出奔については、この画像にある通り諸説様々な理由があるようですが、そのどれが主因なのかを探るのが今回の『英雄たちの選択 - NHK』になります。

(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)

ちょうど大河ドラマ『どうする家康』でも描かれていましたし、今年4月にその石川数正の出奔の理由に関する新資料が公開されたこともあっての特集となっているようです。

 

  石川数正について

石川数正は、徳川家康が幼少の竹千代人質時代の随行者の筆頭として付き添い、今川家で人質となっている家康嫡男の松平信康のその最期にも付き添おうと今川の許に行き、のちの今川重臣の息子との人質交換で信康とともに岡崎に戻ってきた人物です、

叔父の石川家成が駿河国の掛川城主として転出した結果、西三河の筆頭家老となります(東三河筆頭が酒井忠次)。

(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)

築山殿・松平信康自刃事件のあと、岡崎城代になります。

その名前についても、家康から”康”の字をもらい、石川康輝と名乗るなど、まさに第一の股肱という存在で、姉川の戦いでも、長篠・設楽原の戦いでも参戦。小牧・長久手の戦いでも戦っています。

 

酒井忠次と二代筆頭家老として、西三河筆頭として秀吉との交渉役を家康に命じられ、賤ヶ岳の戦いから柴田勝家を倒したのあとの戦勝祝いに赴き、それがのちに出奔する先となる秀吉との接触の始まりでした。

  石川数正の出奔について

1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いに勝利して柴田勝家を滅ぼし、そこから天下人をはっきりと意識して動き出した羽柴秀吉に、家康の交渉役として会うこととなった石川数正、その後の羽柴秀吉 vs 織田信雄・徳川家康連合軍による1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いにも参戦します。

 

織田信雄の単独講和のせいで戦いの大義を失った徳川家康は一時的和議を結びます。その和議の交渉も石川数正で、このときに徳川家康の次男の於義伊(のちの結城秀康)を実質人質として差し出す中、数正も実子の勝千代を於義伊の随行につけます。

 

この一時的な和議の後、羽柴秀吉は次々に周囲の敵を下していき、その支配領域を大幅に増やし、ついに1585(天正13)年7月に関白に就任します。秀吉も家康絵の圧迫を強めていきます。羽柴秀吉は更なる条件として、家臣をあと2、3人出すように求めてきます。徳川家中は酒井忠次を筆頭とする徳川四天王などは断絶して戦うことを主張。家康もそちらに同調する中、石川数正ひとり和議を主張し、家臣らから石川数正は調略を受けているのではないかと疑いを持たれます。

 

秀吉自身は、北信濃の真田昌幸とつながり、真田昌幸は徳川家康に臣従していたはずが裏切って、第一次上田合戦で徳川方をさんざんに打ち破ります。その昌雪に秀吉は家康を攻めることを伝えていました。戦いは間近に迫っていました。

 

大坂城に行き、直接秀吉に会い、秀吉自身や大坂の状況を知っている石川数正にとっては秀吉との戦いを避けなければという思いに駆られますが、家中で一人浮いてしまいます。そこで今回の選択となります。

(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)

選択1:徳川を見限って出奔

選択2:徳川を守るため出奔

(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)

この出奔に関して、2023年4月に致道博物館(山形県)で新たな資料(徳川宛織田信雄書状 天正13年10月14日)が公表されたそうです。石川数正出奔のほぼ1か月前の日付の書状で、徳川家康が石川数正を秀吉の交渉役として派遣することを評価する内容で、家康は和議を断固拒絶ではなかったということで、そんな中での石川数正の出奔ということになるんだそうで、出奔自体はかなり早い段階で徳川家中で発覚しましたが、家康は石川数正らを捕えるように追いかけなかったという事実もあるそうで、そうすると単に見限ったともいえない出奔なんだと思います。

実際には、秀吉の凄みを唯一知る石川数正は、それを理解しない断固拒絶で戦う主張の徳川四天王ら家中から浮いてしまい、追い詰められ、ここままでは暗殺なりされてしまう危険性からの出奔というところなんだと思いました。

 

その後、秀吉は家康を攻撃するつもりでしたが、1585(天正13)年11月末の天正大地震の発生と大被害により

取りやめとなり、秀吉の妹を家康の嫁に送ったり、人質として実母を送ったりで臣従を誓わせる方向に流れ、1586(天正14)年に家康の臣従が実現します。

 

秀吉に臣従した石川数正は、秀吉から”吉”の字をもらい、石川”康”輝から、石川”吉”輝と名前を変え、家康が関東移封の1590(天正18)年に秀吉から信濃国松本に8万石を賜って大名になり、松本城を築城します。

(『どうした?石川数正 〜なぜ家康の忠臣は出奔したのか〜 - 英雄たちの選択 - NHK』(C)NHK)

そんな石川数正の真意は実際にはわからず、

家康のはき捨られし古箒 都へ来てはちりほどもなし」

なんていう歌で皮肉らてしまっているようで、やはり”裏切り者”のイメージがついてしまっているようです。

 

大河ドラマ『どうする家康』の石川数正の出奔についての回

 

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