大河ドラマ『どうする家康』ではあっさりと滅亡した武田家について、大久保彦左衛門忠教の(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫) 』から見たいと思います
一族などの相次ぐ裏切りによる崩壊
(NHK大河ドラマ『どうする家康』で最期の戦いに挑む武田勝頼)
甲州征伐の開始
(NHK大河ドラマ『どうする家康』で西(織田)と南(徳川)から武田領を攻める)
1582(天正10)年春、木曽義昌(妻は武田信玄の三女)は勝頼を裏切って、信長の道案内をします。これにより武田家の滅亡となる甲州征伐が始まります。
武田信玄の三女を妻にしている木曽義昌は武田勝頼の義弟にあたりますが、高天神城の落城や勝頼の新府城の造営の賦役増大と重税に不満を募らせ、織田の調略に乗り、1582年(天正10)年1月に織田方に寝返り、これが甲州征伐のきっかけとなります。
木曽義昌が勝頼に送っていた人質(実母・側室・長男・長女)はこのときに処刑されます。
織田信長と織田信忠親子は高遠城を攻め取り、武田勝頼も諏訪に出陣するも高遠城落城を聞き、甲斐へ引き上げました。もはや譜代の人々はみな配下を離れていきます。
武田梅雪(穴山信君)は、勝頼にとっては姉婿ですが、その奥方を盗み出して、下山(身延町)へ引き上げて勝頼を裏切ります。
家康は駿河から甲斐へ攻め入ります。
家康は、田中城は依田右衛門督信蕃、丸子城は屋代左衛門、遠目城は朝比奈、久野城(静岡市駿河区)は共同で守らせて、蒲原城(静岡市清水区)で穴山信君と対面し、穴山を先立てて、市河(西八代郡市川三郷町)にまで進んできますが、通り道の城を落とすのに時間がかかってしまいます。
織田信長は諏訪に陣をしき、先陣は勝頼の本拠の新府城(韮崎市)に至ります。
勝頼は配下がちりぢりに主君を捨てて逃げ落ち、わずか数十騎ほどになってしまっていました。勝頼は新府城には3月3日に奥方を連れて入り、同郡内の小山田信茂方へ行こうとしましたが、小山田も心変わりして、勝頼を近づけません。もはや5騎10騎の人々と天目山(甲州市大和町)へ入ろうとしますが、譜代の甘利甚五郎と大熊新右衛門尉のむこしゅうとが先に入って寝返って勝頼に矢、鉄炮を撃ちかけます。
土屋惣蔵昌恒は、勝頼を追いかけてくる敵に立ち向かって戦い、多くの敵を殺してから、勝頼の奥方とおそばの女房たちにお別れをし、勝頼とお子様の介錯をして、みずからも腹を十文字に切りました。そのありさまを「昔も今もまれである」とほめぬ者はいなかったとのことです。
勝頼が討たれずに自害できるように奮戦した土屋昌恒、その戦いぶりは織田信長にも称賛され、後に家康はその土屋昌恒の遺児を探し出して取り立てて、秀忠の小姓となり、「忠」の一字をもらい、土屋忠直と名乗り、のちには上総久留里藩主にまでなります。
主君の最期に奮戦したことの評価の大きさを物語るエピソードです。
勝頼親子の首を信長はご覧になり、信長は知行地を沙汰され、上野国を滝川伊予守一益に、甲斐国を河尻与兵衛秀隆に、駿河国を家康に分配します。
織田信長は「富士を一目みよう」とおっしゃって、女坂(甲府市)、柏坂(甲府市、柏尾坂)をお越えになり。駿河国に出て、根堅をお通りになり、遠江国、三河国へでてご帰国なさったということです。
『どうする家康』では、家康側が富士山を見たことのない信長をおもてなしを提案する形ですが、『三河物語』では、信長がここまで来たんだから富士山を見てみたいということで、富士遊覧が始まった形になっています。
甲州征伐、武田家滅亡から、信長の安土凱旋の富士山見物についての回