2023年大河ドラマ『どうする家康』23~25話につらなる徳川家中の悲劇「築山殿事件」と「信康自刃」ついての『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫) 』の記述です。
信康自刃と(築山殿事件)について
NHK大河ドラマ『どうする家康』より自刃する築山殿(瀬名)と信康
五徳の”信康の中傷十二か条”と酒井忠次の中傷
1579(天正7)年の「信康自刃・築山殿事件」について、『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫) 』では、築山殿の処刑については触れられていないのが最大の特徴です。
「信康自刃・築山殿事件」についてはその発端が、信康の正室の五徳(信長の五女)が書いた”信康の中傷十二か条”にあります。
この十二か条を、徳川家康家中の重臣である酒井左衛門督忠次を信長の許に届けます。信長はその十二か条のひとつひとつについて、酒井忠次に内容の真偽を確かめると、酒井忠次は
「その通りです」と答えます。
信長は十二か条のうちの十か条まで酒井忠次に確認を行い、酒井忠次が「その通りです」と答えるので、残り二つについては確認せずに
「徳川家中の老臣(酒井忠次)がすべてその通りというなら疑いない。それなら放置しておけないから、切腹させよと家康に申せ」
と、家康に対してその処分を命じます。
十二か条についての具体的な内容は書いていませんので、『三河物語』ではわかりません。”中傷”という表現です。
酒井忠次は承知して、直接浜松城に帰って主君の家康にそのことを伝えます。
ご利発な殿の家康は、「三郎(信康)は酒井忠次の中傷で腹を切らせることになっただけだ。わたしも大敵に直面し、背後に信長がいては信長にそむきがたい」と信康を処分することに
信康の傅役の平岩七之助親吉は、きっと後悔することになるから、代わりに傅役の不行届として私の首を信長に差し出すことを提案します。
しかし、家康は、信康の処刑を命じます。
「信康はわたしも国におさまりかねないほどの器量のひとり息子で、跡をつがせようと思っていたのに、とても残念なことではあるが、勝頼という大敵と戦っている最中、信長を後陣としなければとても対抗できない。信長を裏切ってはとうにもならぬ。酒井忠次の中傷ではどうにもならぬ。かわいそうであるが、三郎(信康)を岡崎から出せ」とおっしゃった。
家康も信長に従わねばいたしかたないときだったので、あれこれいうこともなく、信康に腹を切らせた。
信康の正室の五徳の手紙のはずが、いつのまにか、酒井忠次の中傷で信康を処分せざる得なくなったという話になっています。
岡崎を出させて大浜へでて、堀江城に移り、そこから二俣城へお越しになり、天方山城通綱と服部半蔵正成に命じられ、1578(天正6)年に20歳でご切腹なさった。
※1579(天正7)年の出来事だが、大久保彦左衛門忠教の記憶では、6年となっている。
信康・五徳・酒井忠次について by 大久保忠教
松平信康について
これほどの殿はまたでることはない。昼夜武勇にたけたものを近くにお寄せになって合戦の話ばかりをなさる。そのほかには馬と鷹が趣味だった。よくよく器の大きな方だった。
人々はのちのちまで「三郎様(信康)がこうおっしゃった」とうわさしたもので、残念なことをおうわさした。
信康の正室の五徳について
二人の間には二人の姫もおできになっていたけれど、仲がよくなかったのであろうか、夫婦なのだから、子どものためといい、あれこれ考えたらこんな中傷はすべきではないのに、「ともかくもひどいなされようだ」といわぬ人はいなかった。
酒井忠次について
徳川家中の重臣であり、ご譜代久しいご主君のことを、奥方に心を移して、奥方と仲間になり、口裏を合わせて中傷したものだ」と家臣の多くが口にして憎んだけれども、信長の威勢を恐れて仇を討つことはならなかった。
『NHK大河ドラマ『どうする家康』では、五徳の手紙は、築山殿(瀬名)の提案で、酒井忠次が安土城で信長の前で読み上げるという形でしたが、『三河物語』では、その手紙が”中傷”であり、それを信長の前ですべて認めてしまった酒井忠次のせいで、信康を処分せざる得なかったと、酒井忠次にその責めを負わせまくっていますが、十二か条そのものへの言及もなく、その後も続く酒井忠次の活躍、”徳川四天王の筆頭”としての地位から考えると、そこまで酒井忠次の責任なのかというと疑問が大いに残る記載だと思います。