#61 キングダムの李牧でおなじみの趙その1 史記世家12~史記から見る中国 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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キングダムの李牧のいる”趙”
 

キングダムで、秦軍と激闘を繰り広げる李牧が使えている国”趙”についてです。

史記では、趙世家第十二にあたります。

今回は、趙その1で、晋の臣下から、韓・魏らで三国に分けて、周王朝に諸侯として認められるまでです。

  祖先

 秦と同じく、中衍(殷初の人、頭は人間だが体は鳥)のときに、帝大戌(たいぼう)の御者となった。その後裔の蜚廉(ひれん)に二人の子があり、兄の悪来で紂王に仕え周に殺されたが、その子孫が秦の祖先で、弟の季勝の子孫が趙の祖先となった。

 ←秦国と祖先が同じだった。

 季勝→孟増(周の成王に寵幸 宅皋狼と号する)→衡父→造父(周の穆王に寵幸、徐(安徽・泗県)の偃王が反乱したがその平定の功で趙城(山西・趙城の西南)を賜り、趙氏と名乗った→6代後、奄父(周の宣王の戎征伐の御者)→子の叔帯(周の幽王が無道だったので晋に行き、晋の文公に仕えた。趙氏がはじめて晋国で興った)

 

  趙夙(叔帯の5代後)

 晋の献公16年、霍・魏・耿を攻撃し、霍攻撃時の御者を務めた。霍公求は斉に出奔し、その後、晋では大旱魃が起こり、占った結果、霍の太山の祟りとのことで、献公は命じて、霍の君を斉より招いてもとの位に復して、霍の太山の祀りを奉蔡させると晋の穀物が実り、献公は耿(山西・河津)を賜った。

 その後は、子の共孟→子の趙衰

 

  趙衰(字は子余)

 晋の献公や公子の誰に仕えるべきか占ったところ公子重耳に吉と出たので、重耳に従った。

 重耳が驪姫の乱で、翟の地に出奔したときにも従い、翟が赤狄の別種を攻撃して、二王女を手に入れると年少のほうを重耳に、年長のほうを趙衰にめあわせたところ、趙盾が生まれた(重耳とともに晋にいたころ、すでに妻との間に、趙同・趙括・趙嬰斉と子があった)。おおよそ19年で帰国でき、重耳は晋の文公となり、趙衰は原(河南・済南)の大夫となり、原におって国政に当たった。       

 文公が覇者となることができたのは趙衰のはかりごとによることが多かった。

 帰国後、晋にいた妻の勧めで翟にいる妻を引き取り、盾を嫡子とすると、先の妻の子3人は謙遜して盾に仕えた。

 晋の襄公6年に死去し、成季と諡された。

 

  趙盾

 父の成季に代って国政に当たった。

 晋の襄公が死去し、太子夷皋が年少であったので、襄公の弟雍を立てようと使者に命じて秦に迎えにいったが、太子の母の様子から自分が殺されないかと心配して、太子を即位させ(霊公)、兵を出して襄公の弟を秦に迎えに行った連中を帰れなくした。

 霊公即位して14年、いよいよ驕慢となり、しばしば趙盾に諌められたが聞き入れず、ついには趙盾を恐れて殺そうとしたが、趙盾の危難を防いで助けるものがあり、逃亡することができた。

 国境を出ないうちに、趙穿が霊公を殺害して、襄公の弟黒臀(こくとん)を即位(成公)させたので、引き返して国政に当たったが、君子らは正卿でありながら逃げて国境も出ず、還って賊を討とうともしなかったことを非難し、太史(史官)は「趙盾、その君を弑す」と記録した。

 晋の景公の時代となり、死去し、宣孟と諡され、子の趙朔が跡を継ぎ、成公の姉をめとった。

 

  趙朔

 晋の景公のときに、大夫屠岸賈(霊公に寵幸され、景公のときに司寇(刑罰を司る官)になった)は、霊公を殺した犯人として趙盾に嫌疑をかけて、趙氏を誅しようとし、韓厥は屠岸賈を止めようとするも受け入れられず、趙朔に逃亡を勧めるも受け入れなかったところ、屠岸賈は君の許しも請わず、将軍たちとともに襲い、趙朔、趙同、趙括、趙嬰斉を殺害して一族を滅ぼした。

 ←一度滅ぼされる。

 

  趙武(趙文子)

 趙朔の妻(晋の成公の姉)は朔の子を宿し、逃げて公宮に身を隠して男の子を生んだので、朔の食客の公孫杵臼(こうそんしょきゅう)と朔の友人程嬰は一族を残すために、程嬰は、杵臼が朔の子(にせの子)をかくまっていると伝え、将軍たちに殺害させて安心させ、真の孤児とともに山中に隠れた。

 15年のち晋の景公が病んで占うと、「大業の後の遂げざる者祟りをなす」と出たので韓厥に問うと、「趙氏の宗家を滅ぼし、国人がこれを悲しんでいるからだ」と伝え、朔の子の件を話し、景公とはかって、趙氏の孤児を立てることとし、宮中に招き隠した。

 将軍達が参内して景公の病を見舞うと、景公は韓厥の部下の衆の力をもって将軍達を脅かし、趙氏の孤児に引き合わせた。将軍達は屠岸賈が君命を矯めて命令してやったもので、まことの趙氏の後を立てようと願っていたことを答えた。

 趙武と程嬰と将軍達は屠岸賈を攻めて、その一族を滅ぼした。元通りの土地と邑が与えられた。

 趙武が冠礼して成人すると、程嬰は地下で趙宣孟(趙盾)と公孫杵臼に報告しなければならないと別れを告げて自殺した。

 位に復して11年、晋の厲公がその大夫の三郤(郤錡・郤犨・郤至)を殺し、欒書は禍いが及ぶのを恐れて主君厲公を殺害し、その曾孫周を即位させた(悼公)(この後、晋では大夫の力が強くなってきた)

 27年、晋の平公が即位した。

 平公12年、趙武は正卿となった。

 平公13年、呉の延陵の季子が晋に使いし、「晋国の政は、結局、趙・韓・魏の子孫に帰することでしょう」と言った。

 趙武死後、文子と諡され、子の景叔が跡を継いだ。

 

趙景叔のとき、斉の景公が晏嬰を晋に使いさせ、叔向(しゅくきょう)と語った。

 晏嬰 「斉の政権は、結局田氏に帰しましょう」

 叔向 「晋の政権も、やがて六卿に帰しましょう」

 

  趙鞅(趙簡子 景叔の子)

 頃公9年 諸侯を合同して周を護らせようとした。

   10年 周の敬王を周に帰した(弟子朝の乱を避けて国外にいた)。

   12年 六卿は法をもって公族(祁氏・羊舌氏)を誅し、領邑を10県に分け、それぞれの一族を県の大夫とした(晋の公室はますます弱められた)。

 この13年後、魯の賊臣陽虎が出奔し、趙簡子受け入れて手厚く待遇した。

 趙簡子が病み、5日して昏睡に陥ったために大夫はみな心配したが、医者の扁鵲(へんじゃく)は診察を終えると「秦の繆公(ぼくこう)も同じように昏睡されたが、秦の未来を夢みて覚め、その通りとなったのと同じで大丈夫であること」を伝えると、二日半後、昏睡から覚めた。

 天帝のもとに行ったこと、天帝が一匹の翟種の犬を預け、『おまえの子が成人したあかつきには、この犬を与えよ』と言われ、さらに、『晋の国はまさに衰えようとしている。七世ののちには滅亡するだろう。趙氏はまさに興隆しようとしている。周人(衛国)を范魁はんかい 地名)の西で破るだろうが、これも長続きしないだろう。いまわしは虞舜の勲を思うて、その後裔の女の孟姚(恵后すなわち呉娃(ごあ)をおまえの十世の孫にめあわそうと思う』と言われたことを家臣の董安于は記録してしまい、扁鵲の言ったことを趙簡子に告げると、趙簡子は扁鵲に田地四万畝を賞賜した。

 ある日、趙簡子が外出すると、夢の中で天帝のそばにいた男が現れ、出来事の意味を伝えた。

天帝が趙簡子に熊と羆(ひぐま)を射させ二匹とも死んだことは、天帝が主君に范・中行の二卿を滅ぼさせられ、それぞれがその先祖にあたること

 天帝が二つの笥(はこ)を賜い、どちらも一対ずつの笥であったことは、主君の子が、やがて翟の地で代と智氏の二国に打ち勝つことで、どちらも子姓の国であること

天帝が翟種の犬を預け、子が成長したら与えよは、翟の犬は代の先祖で、趙簡子の子がやがて代を領有すること

 主君の世嗣(武霊王)のときになれば、政治をあらため、胡服(夷狄の服装)をつけ、翟において中山・楼煩の二国を晋に併合なさいましょう

ということを伝え、その姿は見えなくなってしまった。

 またある日、姑布子卿(こふしけい)が簡子に謁見し、簡子は子らを呼び集め、みなの人相を見てもらうと、子毋卹(むじゅつ)こそが将軍になると答え、趙簡子が子らを試してみると、毋卹が賢いことを知り、太子の伯魯を廃して、毋卹を太子とした。

 定公14年 范・中行の二氏が乱を起こした。

 定公15年春 趙簡子は邯鄲の大夫午を殺すと、趙稷ちょうしょく 午の子)と渉賓が邯鄲で反乱したので、晋の君は籍秦(上軍の司馬)に命じて邯鄲を囲ませた。荀寅(じゅんいん 中行寅 午はその甥、范吉射の姻戚)と范吉射(はんきつせき)は午と親しかったため、籍秦を助けないばかりか、かえって乱を起こそうと図り、董安于はそれを知っていた。

    10月 范氏と中行氏が趙簡子を攻撃し、趙簡子は領邑の晋陽に走ると、晋は晋陽を囲んだ。

       二人の仇敵魏襄らは、荀寅を放逐して梁嬰父(りょうえいほ)を、范吉射を放逐して范皋繹(はんこうえき)を立てようとした。

       荀櫟じゅんれき 知伯文子)は、晋の君に、鞅だけを放逐されるのは不公平で、三氏ともみな放逐すべきことを提案した。

    11月 荀櫟・韓不佞・魏哆(ぎし)らは、公の命により、范・中行を攻撃したが勝てず、逆に二氏が公を攻め返し、公は敗走させ、范吉射と荀寅は朝歌に出奔し、韓・魏二氏は晋の君に趙氏の罪を許すように請い、翌月、趙簡子は晋都絳(山西・曲沃の西南)に入り、公営で誓った。

 定公16年 荀櫟(知伯)が趙簡子に、范氏と中行氏の乱は董安于からでたもので、はかりごとに参与している。二人はすでに罪に伏したのに、董安于だけそのままであると言い、そのことで心を痛めていると、董安于は趙氏が安定し、晋国が安泰になるのならと自殺し、このことを荀櫟(知伯)に告げ、事なきをえた。

 

 孔子は「春秋」に「趙鞅、晋陽に拠ってそむく」と書いた。

 

 定公18年 趙簡子は范・中行氏を朝歌で囲み、荀寅(中行文子)が邯鄲に出奔した。

 定公19年 衛の霊公が死去。陽虎とともに衛の太子蒯聵(かいかい)を衛に送り込もうとしたが、衛は受け入れなかった。

 定公21年 趙簡子は邯鄲を抜き、荀寅(中行文子)は柏人はくじん 河北・唐山)に出奔し、趙簡子はこれを囲み、荀寅(中行文子)と范吉射(范昭子)はついに斉に出奔した。趙氏は邯鄲と柏人を領有した。

 趙簡子は、名は晋の卿だが、実は晋の政権を握り、領邑の広さは諸侯と変わりなかった。

 定公30年 定公と呉王夫差が黄池(河南・邱県)でたがいに会盟の長になろうと争い、趙簡子はついていき、ついに呉王夫差を長とした。

 定公37年 定公死去、趙簡子は三年の喪を一年で切り上げた。この年、越王句践が呉を滅ぼした。

 

 出公11年 荀櫟(知伯)が鄭を攻撃、趙簡子は病み、太子毋卹を将として囲ませると荀櫟(知伯)が酔って、酒を毋卹にあびせ、帰還後は趙簡子に毋卹を廃するように説いたが聞き入れられなかった。このことで毋卹は荀櫟(知伯)を恨んだ。

 出公17年 趙簡子が死去、太子毋卹が立った(襄子)

 

  趙毋卹むじゅつ 趙襄子)

 元年 越が呉を包囲し、趙襄子はこれを悲しみ、家臣楚隆をやり呉王を慰問。

趙襄子は北行して代の夏屋山(かおくざん)に登り、代王を招待して、料理人に命じて、柄杓で代王と従者を撃ち殺し、出兵して代を平定し、伯魯(襄子の兄)の子周を封じ、代の成君となった。

  4年 荀櫟(知伯)は、趙・韓・魏三氏とともに范・中行の故地をことごとく分け取ったので、晋の出公は怒って、斉・魯に告げ、四卿を攻撃しようとしたが、逆に攻められ、出公は斉に出奔の途中で死去し、荀櫟(知伯)は昭公の曾孫驕を立てた(懿公)

 その後、荀櫟(知伯)はますます驕慢となり、まずは土地を韓・魏二氏に要求して奪い、趙にも要求したが、趙襄子は鄭での恥辱のために拒否すると、怒って、韓・魏二氏の兵を率いて趙を攻め、趙襄子は恐れて出奔し、晋陽に立て籠った。

 荀櫟(知伯)・韓・魏の三国は1年余りにわたって晋陽を攻め、汾水の水を引いて晋陽城に注ぎ入れ、城中では釜を懸けて炊ぎ、子を取り換えて食べた。群臣はみな離叛の心を抱き、趙襄子に対する礼もおろそかになったが、ただ高赫(こうかく)だけは礼儀を失わなかった。趙襄子は夜半に宰相張孟談をやり、韓・魏と内通させ、逆に三国で知氏を滅ぼし、その土地を分割した。そこで褒章を行い、人心の礼を失わなかった高赫を第一とした。

 趙は、北は代を、南は知氏の地を合わせ、韓・魏よりも強大となった。

 33年 死去し、代の成君(兄伯魯の子)の子浣(かん)を立てた(献侯)

 

  趙浣(献侯・献子 のちに献公と追尊)

 若くして即位し、中牟ちゅうぼう 河南・湯陰)で政をしたが、襄子の弟桓子が献侯を放逐し、代で自立したが1年で死んだ。国人たちは桓子の子を殺して、また献侯を迎えた。

 10年 中山国(河北・定県)の武公が初めて立った。

 13年 代の平邑(河北・南楽)に城を築いた。

 15年 死去、子の烈侯籍が立った。

 

以上、次の代からは、周王朝により諸侯として認められ、趙国として戦国時代を戦っていきます。

 

 

 

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