#47 キングダムの趙・魏・韓の元の国 ”晋” その2 史記世家9~史記から見る中 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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キングダムの趙・魏・韓の3国の元の国
”晋”その2

”春秋の五覇(春秋時代の5人の覇者)”の一人、文公重耳が晋の統治者になりますが、最終的には、臣下の下剋上により、趙・魏・韓の3つに分かれ(キングダムを読まれる方にはこちらの方がなじみがあると思います)、春秋時代から戦国時代になります。

その戦国時代に入る前までの大国の”晋”です(秦ではありません)

 

 

19年の逃亡生活を経て、ついに晋で即位する重耳からです。

  文公重耳(春秋の五覇)逃亡生活を終え、ついに即位

 懐公圉は高梁に出奔したが、のちに暗殺された。

 以前、重耳を殺そうとした宦官履鞮が、大臣呂省・郤芮が文公殺害の陰謀を告げたが対応できない中、ひそかに秦の繆公と王城(陝西・朝邑)で会った。

 呂省・郤芮が反乱を起こすも、秦の繆公が二人をおびき出して黄河のほとりで殺害し、晋国の秩序が回復し、重耳は安全に即位できた(文公)

 文公は政治を修め、人民に恵みを施した。

  2年 秦は黄河のほとりに陣し、襄王を周に入れようとしたところ、趙衰が「周と晋は同姓(姫姓)の国で、晋がまっさきに王を入れないで、秦におくれをとるなら天下に号令することができなくなるので、今のうちに周を尊ぶことこそが、晋の覇業をなすもととなる」と提言し、晋も出兵し、襄王を周に入れ、その功により河内の陽樊の地を賜った。

  4年 楚の成王と諸侯が宋の都を包囲した。宋の公孫固(荘公の孫)が晋に危急を告げた。宋を助けるために、曹と衛を征伐し、楚がその援助に向かうので、宋を助けることができるとの先軫や狐偃の提言を受け、晋は三軍を編成して征伐に向かった。

  5年 曹を犯して、衛を討ち、衛の五鹿を取り、斉侯と衛の地で会盟した。魯と楚が衛を救おうとしたができなかった。続いて曹の都を包囲し、その後入城した。

     楚が宋を包囲し、助けを求めてきたが、助けたいが、楚にも恩義があり、宋にも恩義がありと迷っていたところ、先軫が「曹伯(曹の君)を捕え、曹・衛の土地を分割して宋に与えれば、楚が曹・衛を救うことを急務として、宋を放棄することになる」と提案して、それを実行したところ、楚の成王は兵を引いた。

     楚の将軍子玉の提案を逆手に取り、曹・衛の復位を許し、楚に絶交宣言をさせたところ、子玉は怒って晋を攻撃し、このとき文公は軍を引き、楚の成王と約束した三舎(90里)退くことを実行した。

     宋の成公、斉の将軍国帰父、秦の将軍小子憗(ぎん)らと衛の城濮(山東・濮県)にて宿営し、楚と戦い、打ち破った。楚を助けていた鄭は敗退を見て、晋と盟約したいと請い、晋と会盟した。

     周王室に楚の捕虜を献じ、周は晋侯を侯伯(諸侯の頭)に任命し、ついに晋の文公は覇をとなえた。”春秋の覇者 晋の文公”

    冬に、諸侯と温で会同して、一同を率いて周の王室に参朝しようと思ったが、力がなく聞かないものがいることを恐れ、周の襄王に河陽(温の北)で狩猟されるように請い、襄王に朝覲した(孔子は史官の記録をみて、「諸侯の身分で、王を召すべきではない」と言い、春秋に「王河陽に狩りす」とあるのは、狩りすべき土地ではないことを忌んだ)。

     諸侯が許の都を包囲した。曹伯の臣下が晋の文公に「曹(武王の弟の後裔)と晋(武王の子の後裔)は同姓の兄弟の国を滅ぼすのは、礼にかのうたことではありません。」と話し、文公は曹の君を復位させた。

  7年 かつて文公が亡命したときに礼遇されなかったことや鄭が楚を助けたことから、秦の繆公とともに鄭の都を包囲した。

  9年 死去し、子の襄公歓が即位した。

春秋時代の大国たち、斉(東)・晋(中)、秦(西)、楚(南

  襄公歓

 元年 秦が周の国を通過して無礼があり、鄭を攻撃し、滑(かつ)(河南・偃師)を滅ぼした。晋ではこれを受け、秦を攻撃することを決め、秦を殽で破り、秦の将軍孟明視・西乞秫(さいきつじゅつ)・白乙丙(はくいつへい)の三人を捕虜としたが、文公の夫人(秦の宗女)が襄公に「秦が三将を殺したがっている」と伝えて、三将を国に帰らせた(後に、孟明視が3年後に晋を討ち、領地を奪回した)

  4年 秦の繆公が晋を攻撃し、黄河を渡って王官(山西・虞郷)を奪った。

  5年 秦を攻撃し、新城を取った。

  6年 趙衰、欒枝、咎季、霍伯ら功臣が死去し、趙盾(ちょうとん)が趙衰に代って国政をとった。

  7年 襄公死去し、太子夷皋(いこう)が幼少で、国難が相次いだことから、襄公の弟雍を推す趙盾と弟楽を推す賈季の間で誰を後継者とするか争うこととなった。

    趙盾は秦から公子雍を(先蔑と随会を派遣)、賈季は陳から公子楽を招くも、趙盾は楽を殺害させ、賈季を退けた。賈季は翟に亡命した。

    この年、秦の繆公が死去。

 

  霊公夷皋(いこう)

 元年 趙盾や諸大夫は夷皋の母の繆嬴(ぼくえい)の言動を憂え、太子夷皋を即位させた。秦の康公は公子雍に護衛兵を多く与えて晋に入れようとするも趙盾が進撃し、打ち破り、先蔑と随会は秦に逃亡した。

    秋に、霊公即位に伴い、斉・宋・衛・陳・鄭・曹・許が趙盾と会盟。

  4年 秦を攻め、少梁(陝西・韓城)をとり、秦も晋の崤(こう)をとった。

  6年 秦の康公が攻撃し、羈馬をとり、これに怒って、趙盾・趙穿・郤欠に命じて秦を攻撃して打ち破った。

  7年 晋の六卿は、随会が秦にて常に晋の乱を図っていることを憂え、魏寿余(畢万の子孫)を秦につかわせ、会を捕えさせた。

  8年 周の頃王が崩じ、周の公卿らが権力争いをしているところ、晋は趙盾に命じ、乱を平定させ、匡王を立てた。楚の荘王が即位した。

 12年 斉の国人が主君の懿公を殺害した。

 14年 壮年となり奢侈にふけり、租税を重くし、台の上から弾き弓を射て、その丸を避けて慌てふためき逃げる人々を眺めることを好んだ。

    趙盾や随会が幾度も諌めるも聴かず、むしろ趙盾の殺害を実行しようとし、趙盾は出奔したが、趙穿が霊公を殺害し、趙盾を迎えた。

    襄公の弟黒臀(こくとん)を周から迎えて即位させた(成公)

 

  成公黒臀(文公の末子 母は周の王女)

 元年 趙氏は晋の公族(公室の一族)たる身分を賜った。

    鄭が背いたので、鄭を攻撃した。

  3年 鄭の新君が即位し、楚をすてて晋についたため楚の攻撃を受け救援。

  6年 秦を攻撃し、将軍と間諜を捕えた。

  7年 楚の荘王と争い、諸侯と会同。陳は楚を恐れて会同に参加しなかったので、中行桓子(荀林父)に陳を攻撃させた。合わせて鄭を救い、楚軍を破った。成公が死に、子の景公拠が即位した。

 

  景公拠

 元年 陳の大夫夏徴舒(かようじょ)が主君の霊公を殺した。

  2年 楚の荘王が陳を攻撃し、夏徴舒を殺害した。

  3年 楚の荘王が鄭を包囲し、晋が救援に向かうも、すでに楚が鄭を下し、鄭の君が楚と盟約して去っていたが、楚・鄭と戦って敗れ、将軍智罃(ちおう)が楚に捕えられた。

  4年 先糓(先軫の子)は3年の楚との敗戦について首謀であったので誅殺を恐れて翟の地に出奔し、晋を攻めたが、晋は先糓の一族を族滅した。

  5年 楚を助けた鄭を攻撃したが、楚の荘王に破砕された。

  6年 楚が宋を攻撃し、宋が助けを求めてきたが、大夫伯宗が楚の勢いから反対し、解揚を宋に遣わして晋が援軍に来ると言わせて欺いた。

  7年 随会に命じ、赤狄(山西のえびす)を滅ぼさせた。

  8年 郤克を斉に遣わせたが、斉の頃公の母がそのせむし姿を嘲笑い、郤克はこの恨みを晴らすことを誓った。帰国後すぐに斉の征伐を請うたが、理由から聞き入れられなかった。

    魏文子が引退を請うて、郤克に譲り、郤克が国政をとった。

  9年 楚の荘王が死去、晋が斉を攻撃し、斉は公子彊を人質に入れた。

 11年 斉が魯を攻め、魯は衛に、そして郤克を通じて晋に危急を告げた。

    郤克、欒書、韓厥に命じ、魯・衛とともに斉を攻撃し、斉の頃公は敗走し、宝物を献じて和平を請うた。

    楚の申公巫臣が夏姫を盗み、晋に出奔し、巫臣を刑の大夫とした。

 12年 斉の頃公が晋の景公を王にまつりあげようとしたが、辞退した。

    初めて六卿を設け、韓厥、鞏朔、韓穿、荀騅、趙括、趙旃を卿とした。楚に捕えられた智罃が帰ってきた。

 13年 魯の成公が晋に参朝したが、敬意を表さなかったので、晋に背いた。

 16年 楚の将軍子反は、巫臣が夏姫を奪って逃げたのを恨み、巫臣一族を族滅した。巫臣は子反に復讐を誓い、晋君に請うて呉に使いし、わが子を呉の行人(外交官)とし、呉に乗車・用兵の術を教えさせ、これを機に呉と晋が初めて国交を通じて、ともに楚を討つことを約束した。

 17年 趙同・趙括を誅し、族滅したが韓厥が趙衰・趙盾親子の功労から祭祀を絶つべきではないと進言して、庶子の趙武を後嗣とした。

 19年 景公が病み、太子寿曼を即位させた(厲公)

 

  厲公寿曼

 即位当初、諸侯と親善を目的に、秦の桓公と黄河を挟んで会盟したが、帰国後、秦は盟約に背き、翟と共謀して晋を攻撃した。

  3年 大夫呂相(魏相)に秦を問責させ、諸侯ともに秦を攻撃し、敵将成差を捕虜とした。

  5年 郤錡、郤犨(げきしゅう)、郤至の三郤が伯宗を讒言して殺した。伯宗は好んで直諌したので禍いし、このことで国人は厲公に心服しなかった。

  6年 鄭が背いて楚と盟約した。

    厲公みずから将軍となり出兵し、援軍の楚軍と戦い、楚の共王を射て、打ち破った。この戦勝で厲公は諸侯に威勢をふるい、天下に号令して覇者になろうと考えた。

    厲公は寵愛する夫人が多く、大夫をことごとく退けて、夫人の兄弟を取り立てようと考えた。一寵姫の兄胥童(しょどう)は郤至に恨みがあったので、この機会を利用して三郤を殺害した。欒書と中行偃も排除しようとしたが厲公が許した。欒書と中行偃は後日、厲公を襲って捕え、胥童を殺害し、周から子周を迎えて即位させた(悼公)

 

  悼公周(祖父は襄王の末子の捷=桓叔→父、恵伯談 共に周で客死)

 元年 欒書と中行偃は厲公を殺害した。智罃に迎えられて即位。

    不臣の者7人を放逐し、先代の功業を修め、民に徳化恩恵を施し、文公が晋に入国した際の功臣の子孫を表彰した。

    鄭を攻撃して打ち破り、陳に至った。

  3年 諸侯を鶏沢(河北・平郷)に会同、魏絳に政治を任せ、戎と和親を結ばせると、戎人が大いに親しんで、晋についた。

 11年 戎翟と和親できたことについて魏絳に舞楽隊を賜った。

    秦が櫟れき 河南・陽翟)を取った。

 14年 六卿に命じて諸侯の軍を率いて秦を攻撃し、大いに打ち破った。

 15年 悼公が治国を楽師曠(こう)に問うと、「ただ仁義が根本であります」

 16年 悼公が死去し、子の平公彪が即位した。

 

  平公彪

 元年 斉を攻撃した。斉の霊公は靡笄山(山東・長清)の麓で戦い敗走し、晋軍は追撃して、斉の都臨淄を包囲し、城内をことごとく焼き払った。各地を攻撃するも斉軍は籠城して守ったので帰還した。

  6年 魯の襄公が参朝、欒逞が罪あって斉に出奔

  8年 斉の荘公は欒逞をひそかに曲沃に送り、晋を攻撃すると、欒逞が内応して、国都絳(曲沃の西南)に侵入した。平公は自殺しようとしたが、范献子が止めて、欒逞を撃退し、曲沃で欒逞とその宗族を滅ぼした。斉の荘公は欒逞の失脚を聞き、晋の朝歌をとって去った。

 10年 斉の崔杼が主君の荘公を殺害した。この内乱に乗じて斉を高唐(山東・禹城)で打ち破った。

 14年 呉の延陵の季子が使者として来て、趙文子・韓宣子・魏献子と語り、「晋国の政権は、結局この三家に帰することでしょう」と洩らした。

 19年 斉が晏嬰を使者として晋に遣わした。晏嬰と叔向が語りあい、叔向は

「晋がもう末世で、公は賦税を重くし、台池をつくって、政治を顧みず、政治は大臣の私門で行われている。長く国を保つことができない」

 22年 燕を攻撃した。

 26年 平公死去、子の昭公夷が即位したが6年で死去し、子の頃公去疾が即位した。六卿の勢力が強く、公室は卑弱だった。←下剋上への道

 

  頃公去疾

  6年 周の景王が崩じ、後継者争いが起こり、六卿が平定し、敬王を立てた。

  9年 魯の季氏が主君の昭公を放逐

 11年 衛と宋が晋に魯の君(昭公)を魯に入れるよう尽力を請うたが、魯の季平子は晋の范献子に賄賂して、昭公の帰国をさせなかった。

 12年 六卿は公室を弱めようと、宗族を法によって族滅し、その領邑を六卿のそれぞれの子の領地とした。六卿はますます強大になった。

 14年 頃公死去、子の定公午が即位

 

  定公午

 11年 魯の陽虎が晋に出奔、趙鞅簡子が自宅に留め置いた。

 12年 孔子が魯の相となった。

 15年 趙鞅簡子が、中行寅・范吉射(はんきつえき)らと定公に攻撃を受けるが、荀櫟・韓不信・魏侈らは范・中行を攻撃した。范・中行は定公を攻撃するも撃退され、朝歌に逃げて籠城した。趙鞅は韓・魏の二人のとりなしで許された。

 22年 晋が范・中行の2氏を破り、2氏は斉に出奔した。

 30年 定公は呉王夫差と宋の黄池(河南・封丘)で会同し、長の地位を争ったが、呉が会の長となった(呉世家には晋がなったと)

 31年 斉の田常が主君の簡公を殺し、弟の驁(ごう)を立てた(平公)

 33年 孔子が死去

 37年 定公死去、子の出公鑿さく 17年、知伯(荀瑶)は趙・韓・魏とともに范・中行の地を分割した。出公は怒って、斉・魯に告げ、四卿を討とうとしたが失敗し、出公は斉に出奔の途中に死んだ。)

哀公驕(知伯が即位させ、知伯が政治を握る。4年、趙襄子・韓康子・魏桓子は共同して知伯を殺し、その領土を分割した)

 

幽公柳

 晋の公室は恐れて、かえって韓・魏・趙の君に参朝し、わずかに絳と曲沃を領有するだけで、その他の土地はすべて三晋(韓・魏・趙)のものとなった。

 15年 魏の文侯がはじめて魏の君となった。

 18年 幽公は婦人に淫し、夜半ひそかに邑内に遊びに出て、盗賊に殺された。

    魏の文侯はその後の晋の乱を誅し、幽公の子止を立てた(烈公)

 

烈公止(19年 周の威烈王は趙・韓・魏をみな諸侯とした。27年死去)

孝公頎は17年で死去し、子の静公倶酒が立った(斉の威王元年)。その2年に魏の武侯・韓の哀侯・趙の敬侯は晋室の子孫を滅ぼし、土地を三分し、静公を庶民に落として、晋を滅ぼした。その祭祀は絶えた。

 

ここに晋が終わり、キングダムでおなじみの趙、魏、韓が登場し、戦国時代の群雄が争う時代に入ります。

 

  太史公の感想

 文公はいにしえのいわゆる明君だったが、亡命して国外で19年間困苦を極めた。帰国後その褒賞において介子推を忘れた。

 霊公が殺された後、成公・景公ともに政治は厳酷を極め、厲公にいたってはまことに刻薄で、大夫らは誅殺を恐れ、そのため禍いが起こった。

 悼公以後は、晋室日々に衰え、六卿が権力をもっぱらにした。

 君道をもって臣下を制御することは、誠に容易ならぬことである。

 

 

 

 

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