#31 "呉越同舟"・”臥薪嘗胆” 呉世家 史記世家1~史記から見る中国の歴史 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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史記本紀については、キングダムでおなじみの秦王政の始皇帝本紀まで進んだので、ここからは史記世家になります。

史記は本紀、世家、列伝という構成です。この構成については、私の第9回 史記から見る中国の歴史 史記とは、司馬遷とはをご覧ください。

 

今回は、史記における呉国についてです。

 

呉越同舟 臥薪嘗胆

 

赤丸のところに呉という国があります。

ちなみに、その南側の越とはとにかくすさまじい対立を繰り返します。

 

  始祖太伯と弟仲雍

 

周の太王の子で、周王季歴の兄で、季歴に賢明な上に聖人となる瑞祥をもって生まれた昌という子がおり、太王は季歴そして昌(のちの文王)を王にしたいと思っていたのを知り、共に南方の荊蛮(揚子江の南の地方)にはしり、いれずみをし、断髪して野心のないことを示した。

太伯は国号を句呉(こうご)と称し、荊蛮の民も彼に従い、呉の太伯とし、子がなかったので、死後は弟の仲雍がたった。

 

 その後は、子の季簡→子の叔達→子の周章(周の武王が殷を征服、武王は改めて呉に封じ、周章の弟虞仲を夏の故都に封じた(虞国の始まり)→子の熊遂→子の何相→子の彊鳩夷→子の余橋疑吾→子の何蘆→子の周繇→子の屈羽→子の夷吾→子の禽処→子の転→子の頗高→子の句卑(晋の献公が虞国を滅ぼした)→子の去斉→子の寿夢(盛大となり、王と称した)

 周により太伯の子孫が、虞(中国)と呉(蛮夷の地)の2国に封ぜられた。虞は晋により滅ぼされたが、蛮夷にある呉は興隆した。

 

寿夢(じゅぼう)

 2年 楚の大夫申公巫臣が将軍子反を恨んで晋に亡命後、呉への使者となり、用兵と車戦を教えた。初めて中国と交通し、楚を討った。

16年 楚の共王が呉を攻撃した。

25年 寿夢死去、子が4人(諸樊、余祭、余昧、季札)あり、賢明な季札を王にしようとしたが、諸樊を立てて国事にあたらせた。

 

諸樊

 父の喪があけると、王位を諸樊に譲ろうとしたが、季札は曹の宣公の事例を用い、節義に反するのでつけないと断り、それでも国人たちが王に建てようとしたので、季札は家を棄て野に下って耕作を始めた。

 4年 晋の平公が立った。

13年 死去し、遺言して弟の余祭、余昧、季札に王位をつけることを求めた。

 

  余祭(話のほとんどが、季札の活動)

 

 3年 斉の宰相慶封が罪を得て出奔して呉へ 領地と王女を与えた。

 4年 季札を使者として魯へ 周の音楽の演奏を観たいとお願いし、魯は周南・召南の詩を奏してみせた。その後、邶風・鄘風・衛風(衛国)、王風(王都洛邑)、鄭風(河南・新鄭)、斉風(山東)、豳風(陝西・邠州)、秦風(陝西)、魏風(山西)、唐風(山西)、陳風(河南・陳州)、鄶風(河南・密県)とそれぞれの音楽が奏され、それぞれ季札が評価をした。

小雅の詩、大雅の詩、頌(宗廟祭祀の楽歌)、大武(武王の舞楽)、韶護(殷の成湯の舞曲)、大夏(禹の舞楽)、招しょう(舜の舞楽)を聞き、それぞれの感想を述べた。

斉に向かい、宰相の晏平仲に会い、斉の国政は誰かの手に帰するから領邑と政権を国君に返すように助言し、晏平仲はそれに従い、欒施・高彊の乱の禍から逃れることができた。

鄭に向かい、子産と会見し、鄭の政権が子産に来ること、政治をするときは礼を重んじることを助言した。

衛に向かい、蘧瑗、史狗、史鰌、公子荊、公叔発、公子朝らの人柄を喜び、「衛には君子が多いので禍乱はありますまい」というが、衛の戚において鐘の音楽が聞こえてきて、孫文子は国君に罪を得ながら、恐懼謹慎しても足らないはずなのに音楽を楽しめるのだろうかと、これを聞き、孫文子は音楽を聞かなくなった。

晋に向かい、趙文子、韓宣子、魏献子らの人柄を喜んで、「晋の国政は、韓・魏・趙三家の有に帰するであろう」と、叔向には、国君は奢侈なのに、大夫は検量な人が多く富裕だから、国政は三家に帰することになるから、自重することを進めた。

帰途、徐を訪れた。徐君は季札の佩剣を欲していたのを察していたが献上しなかった。帰途、徐君はすでに死んでいたんで、その宝剣を解き、塚の樹にかけて立ち去った。

 

  7年 楚の公子囲が王夾敖を殺して即位(霊王)した。

10年 楚の霊王が諸侯と会同し、呉の朱方を攻撃し、慶封(斉から出奔)を殺害。

   呉も楚を攻め、三邑を奪い取った

11年 楚が攻撃

12年 楚が攻撃するも敗走

17年 余祭死去、弟の余昧が即位

 

余昧

  2年 楚の公子弃疾(きしつ)が霊王を殺害して即位。

 4年 余昧死去、季札に継がせようとしたが、季札は辞退して逃げ去った。

 

(余昧の子)

 2年 公子光は楚を討ったが、敗北して王の舟を失うも、反撃して奪い返した。

 5年 伍子胥が楚そして呉に出奔し、公子光が賓客として迎え入れた。

    ※公子光は諸樊の子で、本来なら自分が王になると思い、ひそかに賢子を召し抱え、王僚の殺害の機会をうかがっていた。

 8年 公子光に楚を討たせ、楚を撃破し、ついで北伐して陳・祭軍を撃破した。

 9年 公子光は楚を討ち、居巣・鐘離を抜く。

    ※楚の辺邑の女性と呉の辺邑の女性が桑の葉を争い、喧嘩し、呉の辺邑が滅ぼされたことから、呉王が怒って楚を攻撃した。

 12年 冬 楚の平王死去

 13年 春 楚の喪中に乗じて、公子蓋余・燭庸に命じて、攻撃するが、楚に退路を断たれ、呉軍は還ることができなかった。

    これを機に、公子光は伍子胥が紹介した専諸とともに僚を殺害し、呉王に即位(闔閭)した。公子蓋余・燭庸は楚に降服

 

  闔閭

 

 元年 伍子胥を登用(公子光が王につくまでは身を引いていた)

   楚から伯嚭(はくひ)が亡命(祖父の伯州棃が殺されたため)し、大夫に

 3年 楚を攻撃し、降服していた二公子を殺害、楚の首都郢に入場しようとするが、将軍の孫武(孫子)にまだ早いと止められた。

 4・5年 楚を討つ

 6年 子常囊瓦に命じて呉を攻撃させるも、撃退され、呉が楚の居巣を攻略。

 9年 伍子胥と孫武の助言に従い、唐・蔡を味方につけ、楚を打ち破り、都の郢に入場した。楚の昭王は逃亡し、出奔した。

    伍子胥と伯嚭は楚の平王の屍をあばいて鞭打った。

 10年 春 越は呉王が郢にいる留守をついて呉を攻撃し、呉は敗北した。

    敗北受け、闔閭の弟夫槩(ふがい)は呉に戻り呉王として自立した。

    闔閭は自立した夫槩を攻め、夫槩は楚に逃亡し、楚の昭王は郢に戻り、夫槩を堂谿に封じた。

 11年 太子夫差に楚を攻撃させ、番(は)を奪い、楚は恐れて鄀に遷都

 15年 孔子が魯の相となった。

 19年 夏 越を攻撃、越王句践は奇策を用いて打ち破り、闔閭はこのときの指の傷で死去し、死に際して太子夫差を王とし、句践への復讐を求めた。

 

  夫差 臥薪嘗胆の”臥薪”するも、最終的には・・・

 

 元年    伯嚭が太宰となり、越に対する復讐を忘れなかった。

 2年 越を攻撃、越王句践は会稽山に籠り、大夫種を使者に太宰伯嚭にすがって和平を請い、自分は呉王の臣に、妻は妾になりたいと請うた。呉王は許そうとしたところ伍子胥は「句践はよく辛苦に耐える人柄で、今滅ぼさなければ、将来後悔する」と諌めるも、太宰伯嚭の言を入れて和睦。

 7年 斉の景公死後の家臣たちの争いに乗じて斉攻撃を考えるも、伍子胥の「越は呉の腹心の病いのようなもので、句践が死なない限り安心できない」諌め聞き入れず、斉を攻撃し、魯の哀公を召して百牢の礼を要求し(魯の重臣季康子は子貢(公子の弟子)を使者として送り、太宰伯嚭を説得)、斉・魯の南部を攻略した。

 9年 魯を攻撃

 11年 斉を攻撃

 12年 斉を攻撃、越王句践は手厚い貢物を持って呉に入朝、夫差は喜ぶも、伍子胥は恐れた。

    夫差は伍子胥を斉への使者にすると、伍子胥は我が子を斉の大夫鮑氏に委託、それが夫差に知れ、自害を命じた(自害の際に、墓の上に梓(し)を植え、それで呉王の棺をつくれるようにし、私の眼をえぐって、呉の都の東門においてくれ、その目で越が呉を滅ぼすのを見ることができるようにと遺言した)

    斉の鮑氏が主君の悼公を殺害、海上から斉を攻撃するも撃退された。

 13年 魯・衛の君を招いて会盟。

 14年 春 諸侯と北方黄池で会盟。中国の覇者となることを望む。

    越王句践が呉を攻撃し、太子友を捕虜とし、呉の都に入場した(夫差は国外にいた)

    晋の定公と会盟の長を争い、晋の定公が会盟の長となった。会盟後に帰国し、太子は捕虜で失い。国内はむなしく、士卒も疲れていたので、越に手厚い贈り物を贈り和睦した。

 15年 斉の田常が主君の簡公を殺害

 18年 越が強大となり、呉を攻撃した。楚が陳を滅ぼした。

 20年 越王句践が呉を攻撃

 21年 越が呉の都を包囲

 23年 越が呉を打ち破り、夫差は伍子胥の言葉を用いなかったことを後悔して自害し、越は呉を滅ぼし、太宰伯嚭を誅殺して不忠を示した。

 

  太史公(司馬遷の感想)

 

 太伯は至徳というべし。三たび天下をもって譲る。

 延陵の季子の仁は、心に義を慕うて窮まるところがなく、また兆を見て事の清濁是非を知るのは、ああなんと博覧なことか。まことに博識の君子である。

 

 

  臥薪嘗胆

 日本史だと、日清戦争で日本が勝利して、遼東半島を得るも三国干渉で、国力が十分にないことから、それをあきらめなければならず、三国干渉の特にロシアに対して、このときのことを忘れまいと「臥薪嘗胆」というスローガンが掲げられるわけですが、この言葉は、呉と越の激しい対立の中で生まれた故事成語。

 実際には、「臥薪」と「嘗胆」に分かれます。

 

 

「臥薪」:呉王夫差が、越王句践に父の仇を討つために、薪の上で眠って、その痛みで復讐心を忘れずに、ついに越王句践に勝利する(しかし殺害はせず)

 

「嘗胆」:越王句践が、臥薪した呉王夫差に敗れ、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差に勝ち、呉を滅ぼした(呉王夫差は自害)。

 

 

 

 

 

 

 

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