#25 秦王政=秦の始皇帝 ”始皇本紀” ~史記から見る中国の歴史  | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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中華を統一した始皇帝(秦王政)

戦国時代を終わらせ、中華を統一するも、わずか3代で終わってしまった秦王朝についてになります。3代ですが、やはり始皇帝の存在があまりに圧倒的に大きすぎるのと、2代・3代目が逆にあまりに小さすぎて、その3代が一気にまとめられてしまっています(特に3代は即位してすぐに終わってしまいます)。

始皇帝(キングダムでは今はまだ秦王政)

 

  政(秦の始皇帝)

 

荘襄王の子だが、荘襄王が趙での人質時代に呂不韋の妾を見初めてめとって生まれ、呂不韋の子どもではとも

13歳のときに王として即位

宰相:呂不韋(文信侯)→李斯

将軍:蒙驁(もうごう)、王齮(おうき)、麃公(ひょうこう)など

即位直後、晋陽が背くも蒙驁が鎮圧し、その後、韓・魏を攻め、領土を拡大。

韓、魏、趙、衛、楚が合同して秦を討つ。

弟の長安君成蟜(せいきょう)が趙を討つも、趙の民とともに反乱を起こすも鎮圧されて殺害される。

宦官の嫪毐(ろうあい)が、秦太后(政の母)の愛人となり、その関係により長信侯となる。後に反乱を起こす。相国の昌平君、昌文君らが鎮定し、嫪毐らは車裂きの刑にされ、首がさらされ、宗族が滅ぼされ、この乱に連座して相国の呂不韋が免職された。

※2022年放映のアニメ「キングダム」第4シリーズで描かれたところです。

尉繚の策を用い、諸国の高位の役人を買収する。

桓騎、趙を攻める。騰が韓を攻め、韓の領地をすべて収める。

王翦(おうせん)楊端和、羌瘣(きょうかい)が趙を平定する。

次に攻撃を受ける燕では、太子丹が秦王の暗殺を狙い、荊軻(けいか)に行わせるも失敗し、王翦、辛勝、王賁(おうほん)らが燕を攻め、太子丹を殺害する。

王賁が魏を攻めて、都の大梁を黄河の水で攻めて、魏を平定する。

王翦と蒙武が楚を攻める。楚王(昌平君)と楚将の項燕を倒し、楚を平定する。王翦はその後、越国も降伏させる。

王賁が遼東地域の燕と代を攻めて、平定し、後に燕の南から斉を攻めて天下を初めて統一

秦王政は、丞相と御史に新たな帝号を定めさせることを求め、提案を受けたのち、「皇帝」と号することを決め、自称は朕とした。

(おくりな)について、死んだ後に生前の行いによってつけられるその方式を改めるべきとし、「始皇帝」と自ら名乗り、後は、二世三世と数えていく永遠に続くようにした。

五徳(木・火・土・金・水)で、周は火徳なので、それに勝つ水徳に従い、黒色を尊んだ。

数は六を基本とした。

全国を36郡(6の数から)とし、各地に行政、軍事、監察をつかさどる役人を置いた(諸侯を王にすることはしなかった)

民の武器を咸陽に集め、溶かして鐘や鼓をかける台や銅製に大人形をつくった。

度量衡の統一、車の軌の統一、文字の書体の統一

斉人の徐芾じょふつ 徐福とも)方士で、始皇帝に選任を探すことの許可を求め、童の男女数千人を連れて海に出ていく徐福伝説

 ※日本にも、和歌山県あたりにこの徐福伝説が存在しています。

韓終、侯公、石生に仙人の不死の薬を求めさせた。

 

燕人の盧生、鬼神のお告げ「秦を滅ぼす者は胡である」→北方の胡を討つ。

 ※始皇帝は、この”胡”を北方の敵と理解するが・・・

 

焚書坑儒:学者たちが世の中を惑わすから、禁止して焼き払うべき(李斯の提案)

大規模な道路工事、そして咸陽が狭いので、新たな都(阿房宮)の建設や驪山(りざん)の宮殿を70万人の囚人を使って造営させた。

長男の扶蘇が諌めるも、北の蒙恬(もうてん)のところに流した。

各地を回る途中で、始皇帝が亡くなり、扶蘇に葬儀を命じる詔書を出すも、宦官の趙高が公子の胡亥(扶蘇の弟)や李斯と図り、故亥を太子とし、扶蘇と蒙恬に死を命じた。

 

  胡亥(二世皇帝) 21歳にて即位

 

 宦官の趙高が政務を行い重用し、大臣や自分の兄弟たち(諸公子)を殺害し始め、役人も次々と罰し、恐怖政治が展開された。父と同じく地方を巡幸する。

 始皇帝の阿房宮が完成していなかったので、再開させ、外夷との戦いのため、軍人を集めるが、その軍人を養うための食料などを郡県から次々と徴集していった。

 ついに地方を守る兵卒の陳勝・呉広が反乱し、自立して楚王となり、周辺の郡県もその反乱に応じ、地元役人を殺害し、それぞれが王を称する事態となるも、二世皇帝は反乱の厳しい実情を聞くと、怒って報告した役人を投獄してしまった。

 陳勝軍がついに迫るも章邯(しょうかん)が土木工事をする囚人に武器を与えて戦うことを提案し、陳勝軍を司馬欣、董翳(とうえい)らとともに打ち破り、陳勝を殺害し、項梁や魏咎ぎきゅう 魏王を名乗る)を滅ぼし、趙王歇(けつ)を攻めた。

 趙高が二世を操り、二世と二人だけで政治を決済する。

 先帝の大功臣らが、労役がひどく、税も高いことから、群盗をいくら退治しても出てきてしまうので、阿房宮の造営工事をやめ、労役負担も軽くすることを求められるも、その

大功臣たちを投獄してしまった。

 章邯らは、項羽軍と戦い、敗北を重ねる中、趙高を恐れ、項羽軍に降伏

 趙高は、自分に従うものかそうでないものかの試しを行った。二世のもとに鹿を献じ「これは馬です」と言ったときに、「鹿です」と答えた者たちを罪に陥れて殺害した。

 

 函谷関以東では、燕・趙・斉・楚・韓・魏とそれぞれに王が立った。楚の将の沛公(劉邦)が都に迫る。

 趙高は二世に責任を問われる前に、弟の趙成らと諮り、二世を殺害し、二世の兄の公子嬰を三世として動くも、嬰が趙高を殺害して楚将の沛公に降伏した。のちに楚将の項羽が嬰ら秦の諸公子や一族を殺害し、咸陽を焼き払った。

 

秦の先祖の柏翳は、帝舜などに仕え、功績により土地と「嬴(えい)」姓を賜った。

周末から西方辺境の地に秦として国を建てた。

繆公(ぼくこう)から、どんどんと領地を広げ、始皇帝にて天下を統一した。

始皇帝は、自分は三王(堯・舜・禹)や五帝よりも勝ると考え、同一視されることを恥じた。

 

  漢の賈生(かせい)の「過秦論」での秦の興亡

 

 秦は、四塞の地という地勢と繆公から始皇帝までの歴代の君主が賢人であったことが、天下を取ることのできた大きな要因であった。

 たとえ陳勝らが反乱を起こしても、この地勢を生かし、本拠地を守っていれば戦えたはずであったが、道を間違えたから滅んでしまった。

 始皇帝も二世(胡亥)も人の言を聴かず、過ちも思いのままに行い、暴虐を重ねた。

 三世(嬰)が立つも、すでに誰も味方するものがいなかった。

 臣下らが忠言を発するも身を滅ぼすことがあり、そのため天下の士は口をつぐんでしまったので、上に悪い情報が全く伝わらなくなってしまっていた。

「下情が上達しなければ、国をやぶるもと」

 陳勝は、貧乏人の子で才能も、富も、知識もなかったが、兵卒から身を起こして反乱を起こした。木を伐って武器とするものであったが、多くが従い、各地の諸侯も立ち上がり、ついに秦を滅ぼした。陳勝程度の乱で滅亡につながってしまったのは、秦が仁政を行わなかったからで、人民が危機的な状態であったから大きな力となったのである。

 

 

 

 

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